この時節、こんなタイトルを掲げること自体、安易な便乗ネタと思われてしまいそう。ゆえに、結論とするところから述べておくと--
グレタ・トゥーンベリというスウェーデンの16歳の環境活動家は、その一族から出るべくして出た子孫で、そこには1956年に出版されたハリー・マーティンソンの作品『アニアーラ』が介在しているはず。
--これがわたしの言いたいことである。
『アニアーラ』は、地球の暗澹たる未来を予言する黙示録的作品と言えばいいだろうか。
『アニアーラ』は、地球の暗澹たる未来を予言する黙示録的作品と言えばいいだろうか。
暴風や火災が荒れ狂い、放射能に汚染された地球は今や終焉を迎えており、人間が生き延びるには、火星に移住するしかない。すでに宇宙船が定期航路について、人々を火星に送り出している。
そんな宇宙船のひとつが〈アニアーラ〉号である。現代の巨大クルーズ船さながら、8千人もの乗客を収容して出発する。
だが、不慮の事故によって航路は狂わされ、船は宇宙空間を漂流していく。不毛な旅路が続くなか、人々は宇宙船を惑星とみなし、限られた生活空間の中でそのときどきの希望にすがって生きていくしかない。
そのように展開していくのだが、物語それ自体はメタファーにあふれる韻文で書かれていて、筋を追うように構成されていない。読者は、難解なイメージに見え隠れする深遠なメッセージを感じとらねばならない。
出版当初、この作品はスウェーデン本国はもとより、北欧全体で衝撃をもって受け止められ、ちょっとしたセンセーションを巻き起こし、カルト本のように扱われてきた。
日本では最近、詩潮社から児玉千晶による邦訳が出されており、版元のサイトではこんな風に紹介されている。
壮大な宇宙叙事詩
放射能汚染された地球から火星へと飛び立った宇宙船アニアーラ号は、不慮の事故により、琴座にむけて永遠に宇宙をさまようことになる――。孤独な航海の物語に、新旧約の聖書や数々の神話を重ね、科学用語や独自の造語を散りばめて創りあげた壮大なる詩世界。1974年ノーベル文学賞受賞詩人の代表作。
ここにグレタ・トゥーンベリがどうかかわってくるのか?
冒頭で結論を見せておきながら、話はさっそくには結論に達しそうにない。
まずは、グレタの父と祖父のどちらも俳優で演出家であることから。
冒頭で結論を見せておきながら、話はさっそくには結論に達しそうにない。
まずは、グレタの父と祖父のどちらも俳優で演出家であることから。
1925年生まれの祖父オーロフは『アニアーラ』が出た頃には演劇の分野で活動しており、まちがいなく当時の熱狂のなかで読んでいたはずだ。しかも、この作品はすぐにオペラ化され、舞台上演されてもいる。
単にあの時代を生きたというだけでなく、地球が終わりを迎えるという不安を、自分の無意識のうちに定着させることになった、と言ったら穿ちすぎだろうか。
それにしても、オーロフと、その息子スヴァンテ、そしてスヴァンテの娘であるグレタの3人は、顔の造作がよく似ている。
彼女のつぎなる舞台は、近くマドリードで開かれる国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議(COP25)。そこでは地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」の実施ルールを詰める協議が行われる。
地球温暖化について、わたしはここで何か語るつもりはない。この課題にはあまりに多岐にわたる政治、科学、統計学その他の問題が絡んでいて、何をどう言おうと、自分のイデオロギーの立ち位置を問われずにすまされない。
確かに言えるのは、グレタ・トゥーンベリが地球温暖化に恐怖を抱いている、それが世界にもたらす危機を心から信じている、ということだ。
前回の記事でわたしは、イギリスの詩人クリスティーナ・ロセッティの詩のひとつを取り上げ、「自然」という従わせられない力、という言い回しを使ってみた。そのとき、ふとグレタの存在が思い浮かんだのだ。自然を聖と結びつけてしまう人として。
今グレタに賛同して集まる若者は、あふれるエネルギーでもって、自分たちの価値観を行動に移している。そんななかにあって、グレタ本人は一線を画しているように見える。
Make the World Greta Again! という短いドキュメンタリー映像が、いろんな意味でおもしろい切り口を見せてくれる。--運動というものを作っていくために必要なノウハウ。組織のなかでの役割分担。指導者と協賛者。若者たちが公的な場で放つ激しいメッセージの言葉。それを埋め合わせるかのように、私的な場では極度に軽い言葉を投げかわす。
グレタはそんな若い賛同者のあいだで、楽しげな表情はまったく見せない。自分が心から信じるものだけを見つめている。語調を変えることもない。
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