2019年11月21日木曜日

風の姿を見た人いる?


風の姿を見た人いる?
たしかに風の姿は見えない。けれど、雨が吹きつけてくるのも、雲が吹き散らされて形を変えていくのも、風のしわざにはちがいない。

「誰が風を見たでしょう」という詞で始まる童謡が自然と思い浮かぶ。幼少の頃、この歌を歌ったり聞かされたりして記憶に刻まれたのだろう。あるいは、母の少女時代のノスタルジーを勝手に受け継いだのかもしれない。

 誰が風を見たでしょう
 僕もあなたも見やしない 
 けれど木の葉をふるわせて
 風は通りぬけていく

 誰が風を見たでしょう
 あなたも僕も見やしない
 けれど樹立が頭をさげて
 風は通りすぎていく

大正から昭和初めにかけての「童謡」隆盛の1例でもあるが、ここで話を日本の童謡の歴史にまで広げるわけにいかない。

この歌は、19世紀イギリスの詩人クリスティーナ・ロセッティが残した童謡を、西條八十が訳し、草川信が作曲したものだ。かならずしも日本語の語調を踏まえているとは言えないものの、親しみやすいメロディが、やさしい歌詞としっかり合わさって、この歌は広く流布した。100年ほど前のこと。『風』という題名で知られているが、ロセッティの原詩にはタイトルさえない。

意外なことだが、本家のイギリスでは、この詩が特定のメロディを得て歌いつがれるということはなかったようだ。

 Who has seen the wind?
 Neither I nor you:
 But when the leaves hang trembling,
 The wind is passing through.

 Who has seen the wind?
 Neither you nor I:
 But when the trees bow down their heads,
 
The wind is passing by.

詩人は、風の姿を見た人いる?見たことないでしょ、と語りかけてから、暗示する形でそれに答える。木の葉が揺らぎ、立ち木が頭を下げるので、風がそこにいるのがわかるでしょう、と。


     

ひと月前の1022日、〈即位礼正殿の儀〉が始まると同時に、古式に則った舞台は思わぬ天の演出を受け、人々を驚かせた。仮にこれが舞台演出の手順どおりのスポットライトであったなら、「あざとい真似を」と言われかねなかったろう。

「自然」という従わせられない力がそれをなした、というところに神のわざを見る--これはクリスティーナ・ロセッティが自身の心で見てとって、平易な言葉で歌いあげる独特の詩の世界だ。

それでなくても「自然」の力は、人間の奥深い感情を呼び起こす。
単なる気象の現象だと理解はしている。それでも、荒天を突き破るように突然、山脈の向こうから強風が吹き始め、雨雲を散らして日差しを呼び寄せ、吹き清められた空には大きな虹がかかっている。
そんな光景を目にすれば、そこには人の理解を越える何かがあるように思えてくるのだ。

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