2018年12月23日日曜日

危機一髪


この時期になるといやでも思い出す。そうでなくても、つい最近、札幌市でスプレー缶のガスが引火爆発する事故があったばかりである。昔、自分がやらかした失態のことがよみがえってくる。そもそもは、ひとりの人間の、先を考えない愚かな行為によって引き起こされたと言うしかない。

わたしの場合はつぎのような次第である。
高校2年の冬、おそらくクリスマス時期だった。あのドライアイスはケーキに付いていたはずだから。ともかく、台所の流し場にドライアイスが放置されていた。調理台にはまた、ラムネの空瓶が、見えるところに置かれていた。きっと捨てるにしのびないのでとってあったというところだろう。ドライアイスとラムネ瓶とがわたしの中で出会った。瓶にドライアイスを入れて砂糖水を詰めたら、瓶の口のビー玉が出口に栓をしてくれて、サイダーができる、と思いついた。

こうやって、当時の自分の愚かな思いつきと行動を、順繰りに思い出していくだけで、破滅への道行きがありありと見え、目眩をおぼえるほどだ。結果的にわたしが大惨事をまぬがれたのは偶然でしかなかった。(ここにも「偶然」という〈觔斗雲〉がいた!)

瓶に適当に投入したドライアイスは分量が多すぎたのは確かだ。しばらくして、サイダーはもうできたろうと、開栓のためビー玉を瓶の内部に落としこもうとした。だが、内部圧を受けた玉はゆるぎもしない。そのとき自分の本能が、瓶から手を離せ、と命じたのだと思う、わたしは瓶を調理台の上に置いた。つぎの瞬間、それは轟音とともに爆発した。大きな破片が台所の窓ガラスを突き破り、あたりに液体が飛び散った。家族が家のあちこちから駆けつけてきた。わたしは無傷だった。ただ、轟音で鼓膜がしびれてよく聴こえない、という実感はあった。
爆発の惨状を目の前にして、母はわたしを叱ることも忘れ、無事でよかったと言うばかりだった。

その場では感じなかった恐怖は、あとでじわじわやってきた。それは今にいたるまで体にしみこんでいる。

厚いガラスの破片は窓ガラスを突き破ったが、その一方で、わたしが引き起こした爆発事件そのものは、自分の何かを突き破ってくれたように思う。

前回、高校時代の出来事を語るなかで、わたしはあの学校で過ごすうちに道を見失い、生きる気力まで失せていったことに触れた。それは高校年の晩秋に始まって、一年間、その状態が続いた。自分の内部で変化が起きているのを自覚しながら、わたしはなすすべもなく漂っていた。

その詳細をここで述べているわけにはいかない。話題が重すぎる。ともかく、自分が半透明の液体の中にでもいるように、外界すべてのものに白い靄がかかって見えた。あるいは自分が白っぽい膜に覆われているように思えた。
あの爆発を体験して、自分の陥っていた膠着状態が一挙に破られたのだろう。目の前の白っぽいものは徐々にとれて、世界は透明になり、自分自身は何か硬質なものに変化していた。

2018年12月21日金曜日

マグマの封印が解かれる時


前回の映画『if...』の話題から続く。

当時25歳であり、パブリックスクールの高学年の生徒を演じるにはいささか薹が立ちすぎているが、ミックの役は、マルカム・マクダウェルが演じることで奥行きと陰影を得ることになった。
その傲岸不遜かつ奔放な振る舞いは、年長の監督生たちにとっては脅威でしかなかったろう。それでなくとも、長い学寮生活で倒錯的嗜好に傾きがちな輩たちが支配している世界である。ミックは彼らから徹底的な屈辱を与えられる。

この屈辱が、心に潜むマグマの封印を解いたのだろう、最終的にミックとその仲間は、銃と手榴弾による大殺戮を決行するのである。

この殺戮場面は、現実にあった銃乱射事件を思い起こさせる。それは1年余り前、アメリカ合衆国ラスベガスで起きた。50代の白人男が、ホテルの高層階から下の野外音楽会場に集う人々を狙って、軍用レベルの銃を乱射し、58人もの死者を出したというものだ。
今のところ、この事件はテロと認定されず、動機は不明ながらも、個人的な犯行と断定されている。動機については、薬物の影響だとか、心理学でいう「拡大自殺」だとかの見解が出されている。わたしとしては、本人の「屈辱」体験が引き金になったという説を唱えたいところだ。

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忘れもしない、 あれは高校入学時のことだった。それまでの3年間、わたしは地元大学の付属中学校という実験校で、制服もない自由な空気の中で激励されながら過ごしてきた。実験校は小中学校しかない。高校進学については、地元校のうち、通いやすいところを選べばいいという程度で、ほとんど競争のない緩い進路があるだけだった。

通学時間が徒歩10分という近さであり、わたしは旧制中学を前身とする高校に入った。すぐに、入学が入獄と同義語であることを、重しのような制服の下で思い知らされた。
入学の儀をひとしきり終えたあと、新入生は、何があるか知らされないまま、全員、体育館に召集され、並ばされた。そこを高学年の応援部の男子生徒たちが、黒い詰め襟姿で取り囲み、伝統とやらの応援歌の練習を開始した。ひたすら声をかぎりに歌わせた。部員たちは何かと難癖をつけては、肩をいからせて怒鳴った。
今にしてわかる。それは、新入りを萎縮させ、従わせることだけを目的としたイニシエーションの儀だった。(あの映画の新入生たちはまさにそのような目にあっている)。運悪く新入生集団の端の列にいて、上級生の男に罵声を浴びせられこづかれて涙ぐむ女子生徒をまぢかに見て、わたしは怒りに震えた。

人に屈辱を与えて意のままにするという彼らの意図を、わたしはそこに見た。


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入学した日のこの出来事にはちょっとした後日談がある。それをここに追記しておきたい。

体育館での一件のあとまもなく、新入生の女子生徒が人、応援部に入りたいと申し出て、実際に活動を始めたのだ。黒い詰め襟の男子生徒で成り立っている応援団としては前代未聞のことだった。
人とも、わたしと同じ付属中学の出身だった。付属小からの持ち上がりではなく、中学入試を受けて入った子たちだ。この人が仲良し組だということも知らなかったほどで、わたしにとって彼女たちは身近な同級生とはいえなかった。でも、学年の生徒数が少ない中学校では、話をかわす機会もあって、どんな感じの人かというくらいはわかっていた。少なくとも運動部系のタイプとはほど遠かった。
それにまた、今の世で注目を集めがちな野球部の女子マネージャー、あるいは応援団のチアガールといったイメージともほど遠い。
そういった場面で女に期待される容姿も振る舞いも、彼女たちはもともと持ち合わせていなかった。というより、女の属性を使ってやろうという考えさえ思い浮かばなかったのではなかろうか。落ち着きのある、実直そのものの、まっすぐな子たちだった。
だからこそ、皆、この話に驚かされたのだ。

あの高校では、野球部がどこそこの学校との試合に出るというと、選手激励の壮行会がおこなわれた。昼休みの時間、全校生徒がグランドを見下ろす見物席に召集され、正面に居並ぶ応援団の男たちの蛮声に従って、応援歌を歌わされるのだ。ただでさえ短い25分の昼休みはほぼつぶれ、わずかな時間で弁当をかきこんで終わった。

この壮行会に彼女たち3人の姿が見られるようになった。男たちが中央を占めるなか、その両端に立ち、紺色の制服姿に白はちまきと白手袋を着けて、真剣な面持ちで、拍子に合わせ、手旗を振る水兵のような動作を繰り返した。

どれほどのあいだこの3人が応援部で活動していたのか、わたしの記憶にはない。もとより、どんな気持ちで入部したのか、知ろうともしなかった。
この応援儀式に集約されるような学校生活のなかで、わたしのほうはと言えば、道を見失ってしまった。それとともに生きる気力まで失せていった。

何はともあれ、今では想像できる。あの入学式の日のイニシエーションで理不尽な思いをしたのは彼女たちも同じだったろう。そこでひらめいたのだ。黒づくめの男子生徒たちのなかに女子生徒が混じれば、旧制中学から引き継がれているらしい蛮カラぶりがやわらぐのではないか、と。
翌年の新入生たちがイニシエーションの場で少しはましな扱いを受けたとしたら、彼女たちは報われたことになる。たとえ滑稽に見えたとしても。
神話のトリックスターのように、彼女たちは息苦しい学校に、換気穴を開けたはずだ。

今でも、わたしはその人の名前も顔だちもはっきりと憶えている。その一人、H本さんが付属中学時代に何気なく口にした言葉が、不思議にわたしの記憶に刻まれている。
「わたし、13歳という年が好きで好きで。その前でもない、その後でもない13歳だけ。だから、13歳が終わった時は、ほんと悔しかった」


ひらめきから発した行為や言葉は、意外なほど生き長らえるものだ。

2018年12月19日水曜日

映画『if...』



何たる偶然の一致。ちょうど50年前の今日だったのだ、イギリス映画 if... が本国で公開されたのは。
蔦屋で借りてきたそのDVDを昨夜観たあと、ネットでいろいろと検索するなかで、19681219日という封切りの日付を知って、あらためて自分の来し方を振り返ることになった。

その映画をわたしは京都の名画座〈祇園会館〉で観たはずだ。映画そのものに衝撃を受けたことは憶えているのに、いつ、どんな状況で観たのかという記憶はとんでしまっている。日本での封切りは19698月とのことなので、名画座に降りてくる頃には、わたしはすでに日本を離れていたはずだ。とすると、それを観たのは帰国して京都に住み始めた1973年秋以降のことだろう。

わたしはその映画の何にかくも激しく動かされたのか?
自分の存在を理不尽に縛りつける権威に激しく反発する高校生の心である。そしてその権威に対し、また権威の擁護者たる無害な人々にまで、機関銃と手投げ弾を浴びせ、皆殺しにするという破滅的シーンである。

昨夜、45(?)ぶりにこの映画を観て、細部のシーンまで憶えていることを確認できた。何よりも、Missa Lubu-Sanctus という歌のメロディが記憶にしっかり刻み込まれていた。この長い年月、頭のなかで幾度も反芻して、それらの音楽を自分の記憶に刻みこんできたのだろうか。なんなら再現できるくらい自分のものとなっている。

インターネットの時代、検索すればこのように画像も音楽も手元に引っ張ってこれる。--映画が相互に与え合う影響。イギリスの由緒あるパブリックスクールの輝かしい面と、その反面の、性的抑圧からくる暴虐ぶり。英国国教会の賛美歌が不動の力を誇示するように歌われる一方で、それと対峙するかのように何度も流れるアフリカのゴスペル音楽。いかにもイギリスらしい意表をつくブラック・ユーモア。などなど、話題ならいくらでも出せよう。

ひとつわたしの記憶から抜け落ちていたものがある。カラー場面のあいだに白黒場面がさしはさまれているのだ。これについてはあとの課題としたい。

わたしはその映画の何にかくも激しく動かされたのか?
自分の存在を牢獄の中に縛りつけようとする高校生活を経ていたからだ。1960年代終りの大学闘争に加わったのも、いわば自分の高校に対して報復するためだったといえる。

日本を離れ、自分には羽があると気がついて、せいいっぱい羽ばたく3年間を過ごして、恨みの気持ちはすっかりとれていたはずだ。にもかかわらず、映画 if... は、若い心の奥底に潜むマグマをなおも刺激するに十分だった。

マルカム・マクダウェル演じる男子生徒を頭目とする反逆児たちは、反撃を受けていずれ平定されるだろう。そのことを示唆しつつ映画は終わる。

2018年12月9日日曜日

珠の己は石にきわまる

珠の己は石にきわまる。
唐突にそんなことを言われても何が何だかわからないだろう。

今回は宮田珠己という作家についてちょっと書いてみる。公的には「旅行エッセイスト」と呼ばれている。自分で気になる対象を調べ上げ、どこへでも探索に出かけ、関係者に取材し、それらをネットで発信してはつぎつぎに本にしていく。その文体は「脱力系」と言われ、今や堂々たるファンサイトができていて、「タマキング」という尊称までもらっている。

というような情報を仕入れたのは、久しぶりにこの人の書いたものを読んでからのことだ。ともかく、『いい感じの石ころを拾いに』(2014・河出書房新社)という本を読んでわたしは思った。
「そうか、こういう石ころを見いだす眼力に宮田珠己の真骨頂があらわれているのだな」。
と同時に冒頭のような言葉がひらめいたというわけ。

以前、当ブログの記事『待つこと、持つこと』で、ずっと昔、アイスランドの海岸で石ころを拾い集めたことがあるという話をした。

そののち、ロジェ・カイヨワの『石が書く』(1975) という贅沢な造りの本を読んで、わたしは石が放つメッセージに惹きつけられた。特に「あばらや石」と称される、幻影都市を描いたかと思わせる模様の岩石にいたく魅入られ、ロンドンの大英自然史博物館を訪れて展示品を見て回ったこともある。

それはそうと、今は宮田珠己の魅力を語るつもりでいるのだ。
本人は石ころや岩石の風貌を言葉で描いているだけだのに、それを読む者は、秘密や謎が隠された異世界に案内してもらっているように思えてくる、と言えば、その感じをわかってもらえるだろうか。

以前、わたしは宮田珠己の初期の本を書評サイトで取り上げたことがある。その全文を下に再録して、この人の魅力をいささかなりともつたえておきたい。
そこではタマキング・ワールドに引き入れられ、彼独特の節回しにつられて踊ってしまう読者の姿までさらしてしまっているが。

ポプラ社から出た当時の、『ホンノンボ ふしぎ盆栽』という書名は、再版されて、『ふしぎ盆栽ホンノンボ』というもっとすわりのいい名前に落ち着いたようである。



ベトナムは ホーチミンよりも ホンノンボ
2009/03/31 21:49
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
 投稿者:エストラ言 - この投稿者のレビュー一覧を見る

「起伏の激しい磯だ。左下の船着場から中央の階段状の岩を伝って上陸すると、左手に東屋がある。道はおそらく、右手の岩山裏にも通じており、そのむこうは登山道なのかもしれず、あるいは集落があるのかもしれない。岩山には、波に浸食されてできたのだろう、船を隠したりするのに使われているのかもしれない洞窟があり・・・」(p.29
 
 ここで、行く手に何が待ち受けているかわからない旅路が始まる・・・と思いきや、これは、ミニチュアの岩山に目を張りつかせて、「自分が小さくなったつもりで、ホンノンボを探検する」著者の脳内映像だ。

 ベトナムの「ホンノンボ」に惹かれ、わずかな手がかりをもとに探求の道へと踏み出した著者は、こうして〈ホンノンボをめぐる旅と考察〉ともいうべき写真満載の楽しい本を世に出してくれた。

 そもそもホンノンボとは何か?
 ひと言でいうなら盆栽である。ホン(島)・ノン(山)・ボ(シルエット / 景)という名称のとおり、水に囲まれている山の景観を模した盆栽。
 ベトナムの北部、ハノイ周辺で愛好されているものだが、もともと中国伝来で、道教の宇宙観に基づいて作られるという。
 水をはった鉢に岩石をそそり立たせて島を出現させ、そこに植物を根付かせ、ミニチュアを載せるのが基本らしい。
 ミニチュアは、といえば、三蔵法師に従う孫悟空たち一行、碁盤をはさんで対局する老人、水辺で釣り糸を垂れる太公望といった人形、布袋や観音の像、塔・東屋・楼閣・橋・船などの建造物、あるいは大小の動物や虫。基本的に中国の山水画に見られる素材だ。

 「ミニチュアをひとつ置くだけで、それが周囲の岩や草や苔の縮尺に変化を与え、なんでもない苔の茂みが鬱蒼としたジャングルに見えてくることもある」(p.32

 趣味にするにしても、ホンノンボは手間がいらない。多孔質の岩に植物が根を伸ばすので、作ったあとはほったらかしてかまわない。それに、涼しい風情をともなっているので、家人にうるさがられない。

 もっと見たいと思って探し歩くにも限界があり、著者はハノイで日本語のできる通訳とおかかえの運転手を雇って、ホンノンボの奥義を究める旅に出る。
 旅は最初からズッコケの様相を呈していた。
 
 「通訳のタム氏は扇状地のような顔をした三十代の男性で、「タムはベトナム語で心のことですね」といい、「タマちゃんと呼んでください」と自己紹介した。「いやです」と即座に切り返しそうになったが、最初からそんなことでは険があるので、涙をのんで譲歩することにした」(p.93

 とはいえ、さすがに雇い主の追求するものに合点がいくようになると、通訳氏の情報収集能力は向上して、その道の達人のもとへ案内してくれる。最初無関心だった運転手トゥアン君までがホンノンボの魅力に開眼し、素材を買い求めるようになる。
 場所はハノイ近郊、水田地帯に山水画が出現したような岩山がそびえ、さながら巨大なホンノンボである。で、この3人組ときたら、まるでホンノンボにのっかっているミニチュア、西遊記の一行ではないか。

 そして、旅の終わりに著者は結論めいた境地に到達する。

 「・・・ルールを守り、普遍的な価値へと高めていくスタイルがある一方で・・・ルールに縛られないやりたい放題のスタイルもある。そこに海と山、すなわち地形が表現されてさえいれば、あとは何をつくったって構わないという寛容さ。ひとりひとりが独自のエキゾチズムを投影し、自分だけの桃源郷に思いを馳せる。
 もしホンノンボがそのようなものだとすれば、そこにこめられた気持ちは千差万別で、決してひとつの言葉で理解することなどできないにきまっている」(p.222

 この言葉に甘えて、読者のホンノンボ体験をひとつ。
 じつを言えば、私は初めてベトナムを旅する前、参考書のつもりで本書を読んだのだ。(以前、ポプラ社のサイトに連載されていたときには、「キッチュなものに凝るやつがおるわ」くらいにしか見ていなかった)。
 肩こりというものは、「肩こり」という言葉を知って初めて実感されるというが、私にとっては「ホンノンボ」がまさにそうだった。
 南部と中部しか行っていないので、ホンノンボの本場とはほど遠かったが、それでも見えてくるのだ。寺院の前庭に、古い家屋の坪庭に、美術館の中庭に、なにげなく置かれているのが。町を歩いていて、2階、3階のベランダから鉢植えの緑がのぞいていると、かならずやそこにあるはずのホンノンボが。あるいは街路のバニヤン樹の、気根が幹と縒り合わさった隙間に、切り花や人形が置かれていたり、蘭の花が根付かせてあったりすると、そこにホンノンボを実感してしまう。ほかのだれも気にとめるようすがないので、言ってあげたくなった。
 「ほら、見なさい。ホーチミン*もいいけど、なんたってホンノンボですよ」


*(今さらながらの注)--いわずと知れたベトナム建国の父。この国の通貨ドンの大半を占める紙幣の顔はすべてホーチミンである。