承前。
問題のM講師は同じ外大の英語科出身で、在学中デンマーク語の授業を受けていたことから講師として抜擢されたものらしい。外見は肥満タイプ。それでいて、太った人に期待したくなる陽気さはみじんもなく、鬱の気質が外見ににじみ出ていた。鬱の人が太ってしまう典型例だ。
初年度のことだった。講師はときどき授業内容とは関係ない話題を振ってみせた。心にわだかまっている屈託を披露することで、気難しくも高邁な自分を演出していたようだ。
曰く、語学を学ぶのに最適な場所は二つある、ひとつは刑務所、もうひとつは精神病院だね。曰く、自分はクラシック音楽が好きで、ベートーベンを聴いていると、これほど高い境地には、ほかのどんなものをもってしても到達できないと思えてしまう。そう言ったあと続けて
「君たちのうちでクラシックが好きな人がいたら、どんなのが好きか教えてください」と問うた。
わたしは意地でも手をあげるつもりはなかった。
同級生たちのうち、ふたりの男が手を上げた。
ひとりは、ニキビ跡で顔が厚ぼったいせいか、すでに堂々たるおっさんに見える御仁で、それにふさわしい如才ない態度まで身につけている。まっさきに指名されると
ひとりは、ニキビ跡で顔が厚ぼったいせいか、すでに堂々たるおっさんに見える御仁で、それにふさわしい如才ない態度まで身につけている。まっさきに指名されると
「ヨハン・シュトラウスだす。あのワルツを聞くと何ともええ気分になりますう」と答えたものだから、講師は優越感まじりの微笑で応えた。
だが、つぎに指名されたのは一筋縄ではいかない相手だった。
「このところハインリヒ・イザークが気に入っています。最近、ドイツ・グラモフォンのアルヒーフ盤で出た〇〇に入っていて・・・」
狷介という言葉の見本例のようなこの学生の鉄壁の発言に、講師はみごと跳ね返されて目をパチクリさせた。
M講師の屈託がやらかしたのだろう、彼のひとつの行為が、大学闘争へと発展していくきっかけとなったのだ。
大阪外大では、専門科目を2年続けて落としたら退学させられるという学則があった。すでに留年の身だったデンマーク語科の学生が、M講師の科目試験で落とされ、その学則を適用されようとしていた。パニック寸前になった当人が、なりふり構わず命乞いをして回ったため、それは皆の知るところとなった。
同情を寄せた何人かの学生たちが研究室に押しかけて、M講師が採点した成績表をともかく開示するよう求めた。それに対して講師は、貝のように口を閉ざして拒み通した。
この交渉を画策した学生たちは、大学闘争という盤上ゲームの棋譜をすでに目の前に広げていたのだろう。
「あくまで成績表を開示しないということであれば、研究室を占拠する」
と宣言して、問題の講師、そのほかの教師たちをまとめて部屋から追い出した。
主任教授がたちまち白旗を上げて、保管してある成績表を出してきた。すると、当の学生は数字上、問題のない成績だったにもかかわらず、不可の烙印が押されたことが判明したのである。
M講師は、性格からして、そのようなことをやりかねない、という読みがすでに学生たちにあったのだろう。ひとりの学生に対して不当な仕打ちがなされたとわかると、くすぶっていた稲藁が一気に炎を上げた。
研究室を占拠する学生たちはM講師に釈明を求めた。だが、彼は雲隠れして、二度と姿を見せることはなかった。そのうちに、休職して精神病院に入院中との報がもたらされた。
皮肉なことに、彼は自分でかねがね言っていたように、語学を習得するに最適な場所に居ることになったのである。
かりにこういうデンマーク語学科の、それ自体卑小な出来事がなかったとしても、当時、主だった大学に波及していた全共闘運動が、大阪外大をも飲み込むのは時間の問題だった。夜間部の学生のなかには、すでに労働争議を体験してきた者もいた。
そのように始まった大学闘争に、わたし自身、どれほど関わったのだろう。
政治的などんな大義も自分でイメージできない者には、「ノンセクト・ラディカル」という間に合わせの組織がうってつけの場となった。
同じ匂いをなすりつけ合う仲間たちのなかにいて、誘いがかかれば街頭デモに加わり、共闘と称して、やはり学生が占拠していた京都大学に泊まりこんだりした。
その一方で、自分は大河の流れの岸辺で、浅瀬に踏み込んでみては、また安全な岸に戻ったりしているだけだと自覚していた。自分はいつでも安全な世界に戻っていけるのだ、と。
ひとつだけ言いたいことがわたしにはあった。
「こんな、不備のまま始めることになったデンマーク語科は、いったん廃止したほうがいい」
これは自分の偽らざる本心であり、何かの運動につながる話ではない。ところが意外なことに、この発言は
「わっ、何てラディカルな!」
という態度で迎えられ、わたしは大学解体運動の担い手のように扱われた。
という態度で迎えられ、わたしは大学解体運動の担い手のように扱われた。
あの時代(今だってそうだが)、ほんのわずかな語彙とスローガンを唱えていれば、あとは同時代の空気がすべてを代弁してくれるのだ。
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