2018年1月25日木曜日

はるかな昔、多摩川から遠く離れて

承前。
それよりはるか昔、多摩川から遠く離れて。

1974年頃の京都、伏見区、いつもの場所だった。西部邁夫妻が居合わせていた席にわたしも連なっていたのは。そこは、こちらにとって文字通りサンダル履きで行ける隣家で、いつも文化人サロンが展開されていた。

あの鮒鮨のように濃密な京都文化人の結束する現実を思うだに、それに関わる話題を出すのは気が重い。(だからますます京都文化人は濃密に結束するのだ)。ここでは極力、固有名詞を出さないことにする。

1973年秋、3年ぶりで帰国する少し前から、何とはなしに、自分は帰国後、京都に住む気がしていたのだろう。あの夏、わたしがドイツ語の夏期講習を受ける先としてハイデルベルク大学を選んだのも、無意識のうちに京都への流れを進めていくためだったのか、と今にして思う。

実際に帰国したわたしは、それまで波に運ばれるまま自分の居場所を定めてきたように、周りの人たちの好意にみちびかれながら、京都市南にささやかな一軒家を借りて暮らし始めた。何から何まで異郷のように思えた。(どのみち16歳のときからずっと、故国にいながら異境にある自分を自覚していたのだが)。しかも新しい異郷はすべてが新鮮だった。

ともかく、アイスランドから船便で送った荷物は、大阪港止めにしてあった。
それよりも、まだ在籍していた大阪外国語大学に出頭せねばならなかった。

まず、デンマーク語学科の研究室に出向いて、自分が存在していることを示した。さいわいその場に、デンマーク生活が長かった教師がたまたま居合わせていたので、その人に向かって、3年間の留学がどんなだったかを話した。

アイスランド大学では、文学部の外国人向け課程を終え、最終試験と論文も通って学位を得た。
そのほか、3年目の年度では、文学部、デンマーク語学科第1学年の授業を、アイスランド人学生に混じって受けた。その年度末の試験では、課題論文をデンマーク語で書くのは、ほかの学生と同じだったが、時間制限のあるペーパーテストとなると、アイスランド語で訳文を書いたり、回答したりするのはハンデがありすぎるので、わたしは主任講師に頼んで、別に試験問題を作ってもらい、最終結果を書類の形でコメントしてもらった。
その夏、大学の夏期語学コースで、デンマーク語とドイツ語をはしごするという愉快な体験もあった。

そういう公的書類を見せに研究室を訪れたわけではなかった。挨拶に困って、場を埋めるためのおしゃべりをしただけのことだった。

結果的に、自由を享受している者の、自信をひけらかし気味の姿を見せつけることになったかもしれない。
「こんなところに拘束されて、いったい、何が身につくというのだ、書類上の資格を取得すること以外に?」といった態度は、それ自体、不遜きわまりない。だが、制度で守られていない者、野生動物にとっては、行使していい特権に思われた。

研究室にいたそのほかの、面識のない人たちにしてみれば、いっとき幽霊が現れて、また消えていったくらいのことだったろう。

そのあと、事務課に行って退学の手続きをすませた。

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肝心の西部邁氏のことから離れてしまったようだ。だが、こういったとりとめのない述懐も、氏が導き出してくれているものと思いたい。

京都の文化人サロンでわたしは「アイスランド帰り」と呼ばれて、しょっちゅう開かれる宴会では、ちょっと毛色の変わった珍獣の役割を与えられた。

たぶん「アイスランド」という言葉が何のイメージも結んでくれないからだったろう、人から、どうしてアイスランドに行ったのか、と聞かれることはあまりなかった。
むしろ、せっかく入った大阪外大を終えて、順当に留学すればいいのに、途中で出てしまうなんてもったいない、という観点から好奇心を向けられた。

それに対してわたしは、60年代終わりの大学闘争にかかわることになって、もうもとの場所に戻るわけにいかなくなったから、とごく手短に答えていた。
あるいは、もともと政治とは無縁の人間だったのに、同じ語学科の、救うに値するとは思えない学生を、退学処分から救う運動に加担して、結果として自分自身が退学することになった、と付け加えることもあった。

(実際のところ、あの大学の、あの学科を選んだことが、早くから悔いの種になっていたので、わたしは、大学や専攻を変えられない日本の現実に、恨みの矛先を向けたと言える)。

サロンで西部氏と遭遇したときの記憶は希薄なままだ。つぎつぎに新しい顔ぶれが現れるせいもあったが、客人の多くが美術関係者であり、話題が飛びかうなかで、特に氏とまとまった話をする機会もなかったのだろう。
ただ、あとでサロンの主から、氏がわたしについて何やら好意的なコメントを述べていたと教えられたことだけはしっかり記憶にとどまった。だから自分はじっさいに西部邁という人と出会ったのだと思うばかり。

あのとき氏はまだ30代半ば、少壮気鋭の学者だった。

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