2018年1月23日火曜日

雪に覆われた朝-西部邁氏のこと

そのあと出現する情景をあらかじめ思い描いていたのではないか。「花のもとにて春死なむ」と願った歌人のように。
その人の入水ののち、出現した雪景色。
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日早朝、西部邁氏が多摩川に身を投じ、「自裁死」をまっとうした。

その報を受けて、ネットでいち早くコメントしていたのは、西部氏と何らかの形で接点があった人たちだ。思想的に共鳴していようがしていまいが。すでに彼の思想について何か言えるだけの見識を持ち合わせていればこそ。
接点ということでは、じっさいに本人と言葉をかわしたという記憶が、何か言わずにおれない気持ちにさせるのだろう。

自分もその一人だ。ただ、わたしの場合、本当の意味での読者とは言えないし、その昔、出会ったことがあるといっても、つかのまの邂逅でしかなかったのだが。

氏が入水した多摩川のあのあたりはよく知っている。日本中が土地バブルの狂騒に揺れ動いていた当時、その余波を受けて、立ち退かざるをえなくなるまでの8年ほどの間、この川べりで借家暮らしていたのだ。

川向こうは神奈川県川崎市。こちらから見える対岸は、護岸と称するコンクリートで固められている。
一方、こちらの東京都側は、車が走る「多摩堤通り」を兼ねた岸壁が、万が一の氾濫をせき止める役割をになっているだけ。
その広い河川敷には、篠竹の密生する藪地までできていて、あちこちにできた踏み道をつたっていけば、簡単に水辺に降りられる。
川そのものは流れるにまかせてあって、台風や豪雨のあとでは、中州が形を変えているのがつねだった。

とびきりの快晴の日には、手品師が布を払って見せてくれるみたいに、ちっぽけな富士山が、視線の果てに出現した。

そのなつかしい多摩川べりが、氏の最後の住環境だったということを知って、胸を突かれる思いだった。

老齢で足どりが不確かながらも、河川敷を進んでいき、踏み道をたどっていくと、湯船をまたぐより簡単に、流れに身をひたしている。--そのような光景が勝手に脳裏で展開していった。

ずっと遠い昔のことだった、わたしが西部邁氏とつかのま出会ったのは。


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