前回から糸を幾筋か、たぐり寄せて続ける。
窓の外に小学校が見える。校舎の向こうは校庭で、ふだんから運動場として使うという目的に沿っているのだろう、まっ平らな地面が広がっている。コチコチに固められていて、花どころか草1本生えそうにない。日本全国、大半の学校で見られる光景だ。
コチコチの校庭は「絶対的正義」の具現化と言えないだろうか?教育現場にいるというだけで、自分が正しい側にあるのだと信じている教師たちの、晴れがましいまでに平板な心のようにも見える。そこに疑いをさしはさむ気分的余裕など、入りこむすきまもない。学校教師は、未熟な人間に「当たり前」なるものをたたきこむことになっているのだから。さもなくば、「落ちこぼれ」などという言い方ができるはずがない。
イスラエルの詩人、イェフダ・アミハイ(1924-2000)の作品『わたしたちが正しい場所』を思い出す。
わたしたちが正しい場所からは
花はぜったいに咲かない
春になっても。
わたしたちが正しい場所は
踏みかためられて かたい
内庭みたいに。
でも 疑問と愛は
世界を掘りおこす
もぐらのように 鋤のように。
そしてささやき声がきこえる
廃墟となった家が かつてたっていた場所に。(*)
ドイツに暮らすユダヤ教正統派の家に生まれたアミハイは、子供のとき、両親に連れられ、パレスチナの地に移住してきたという。以来、イスラエル建国によって引き起こされた数かぎりない紛糾のなかで、エルサレムの厚い層をなす歴史とともに生きた。
そこでは、自分たちこそ正義の側にいるとするさまざまな人たちが、おのれの正当性を声高に主張している。今もなお。アミハイは、そんな町の、固められた石のあいだに、生き死にしてきた人間のひそやかな息吹を聞き取ってきた。
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