まちがいなく、このわたしも長年にわたって教育されてきた、A新聞によって。子供の頃からわが家でA紙は地元紙といっしょに食卓に置かれていた。その文章は周到に咀嚼され、口当たりよくできていたのだろう、中学前から目についた記事を読んでいたと思う。
A紙の方向づけに自分がすんなり従ったかどうか--それについては何とも言えない。若い心と頭を引きつけるものは新聞以外にもいくらでもあった。
それにしても、十代の人間を突き動かす「憧れ」の情動は、何かをおぼろげに知るところから生じるのだろう。地方都市のくすんだ日常に幽閉されていると思える身に、A新聞は外界にひらけた窓のように感じられた。紙面で発信されるさまざまな文化世界が燦然と輝いて見えることもあった。
〈大阪国際フェスティバル〉の特別企画として開催された〈バイロイト音楽祭〉がまさにそうだ。主催元のA新聞が、別格扱いの華やかな特集を用意して、その祭典のことを報じていたのだ。高校生だったわたしはその記事を見つけて、親に頼み込み、何とか前売りチケットを手に入れた。
すでに脳内でリヒャルト・ワグナーの音楽が麻薬のように効いているなか、ゲルマン神話も含めて、その楽劇の世界は、自分個人がひそかに祀る宗教のようになっていたのかもしれない。このことについては、いずれ別の筋立てで語る機会があるだろう。
今はA新聞のことからそれるわけにいかない。
元朝日新聞記者の永栄潔が書いた『ブンヤ暮らし三十六年 : 回想の朝日新聞』という滅法おもしろい本がある(草思社 2015)。朝日という組織は、過去の一時期、この著者のように清濁併せ持つ、厚みのある人材を数多く抱えるだけの精神的余裕があったのだ。もちろんそれは経済的余裕に支えられていたのだろうが。
その責任の大きさに対し、まともな反省も見せずにやり過ごそうとしていることで、今も朝日新聞に対する批判がやまないのも当然だ。だが、ここでバッシングに加わろうというつもりはない。
わたし自身、A新聞の説教調が鼻につくようになって、長年の講読をやめたという経緯がある。
20世紀の真っ盛り、メディアの世界が百花繚乱だったなか、A紙はつねに教育者としての立ち位置にあって、自分たちが「正しい場所」にあるとしてきた。だから、そこには本当の花が咲かなかったのだろう。
報道記事よりも、コラムのように自由度の高い記事で、記者たちの余技的力量が発揮される。埋め草のような扱いだったとはいえ、A紙の匿名記者の書くコラムはこしらえ物に見えた。
おそらく組織での順位が上がって、コラムを担当するようになったのはいいが、乏しい体験から絞り出すだけで精一杯だったのだろう。風呂場の鼻唄みたいに、ひとりいい気になって歌う歌は、たいがい聞けたものではない。
「言うにこと欠いて」の発言ではあったが、そこには組織の姿勢というものがからんでいたはずだ。
のちに知ったのだが、A紙は記事に「角度をつける」ことになっているという。あの匿名記者たちは、社是に合ったコラムを書くのにさぞや苦労したろう。
20世紀も終わりに近づいて、それまで長らくなじんで別れがたかったワープロを捨て、パソコンに乗り換えた。購読紙はすでに朝日から毎日に変えていた。
ある日の『天声人語』にさすがに堪忍袋の緒が切れたのだ。
その欄ではおなじみの切り口で、さりげない出来事から始め、そこに何らかの意味づけと色合いを加え、文句のつけようのない教訓に仕上げる--手順はいつもながらだった。ところがその日の執筆者は知性の点で難があって、自分の誤謬を教壇でさらすことになった。さらに絶望的だったのは、その誤りを訂正してあげる人がいなかったことである
" I'm not an exhibitionist!
"
たまたま見かけた若い白人のTシャツにそう書かれているのを目にして、「自分は展覧会主義者ではない」ととった執筆者は、その誤解の上に意味付けをほどこして、ひねりのきいた教訓を導いてみせた。完璧な展開を見せたつもりだったろう。
「オレ露出狂じゃないよ」というだけのことを、誤解にもとづいてここまで捏ねあげる。「言うにこと欠いて」とはまさにこのことだ。
「この※※※!」紙面に向かってわたしは毒づいた。
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