片隅から眺める。それに尽きるのかもしれない、自分にとって望ましい立ち位置は。
その昔、『華麗なるギャツビー』の映画(1974年制作)を見たとき、いかにもアメリカ的な新興富豪のパーティ三昧の生活と、そこで繰り広げられるドラマ模様には辟易させられた。ところが、それが第三者によって見られ、語られていく展開がわかってくると、ギャツビーをめぐる物語から目を離せなくなったのだ。
主人公の派手な生活ぶりの裏に見え隠れする寂寥。彼を取り巻く、一見薄っぺらな人間たちに感じられるニュアンス。そういったものが、影の主人公ともいうべきニック・キャラウェイの目を通して描かれる。
ニックは地味で内気な人物で、たまたま借りた古家がギャツビー邸の広い敷地に隣接していたため、その片隅から、目立たない存在のまま、目の前で繰り広げられる狂騒世界を眺め、自分なりに見える絵柄を描いてみせる。といって、その絵模様に自分をまぎれこませるようなことはない。
その映画で見たニックの立ち位置が、わたしには妙に心地良いものに思えた。自分をそんな場所に置けば、自然に何事か語りだせるような気がした。
つまるところ、自分は舞台の中央で演じるようなタマではないと白状しているわけだが。
ブログを始めてちょうど1年になる。
自分の記憶という限られた素材をもとに書いてきて、自分の立ち位置が見えてきた。
過去の記憶--といっても、その後の年月によって多少なりとも修正されているものだが--そんな記憶に、今の自分に可能な解釈をほどこす。一方、日々、世界で起きて報道される出来事に端を発し、過去の記憶が呼び起こされることもある。過去と今をつなぎ合わせてみるうちに、何かしらまとまった形ができていく。
そんな作業を振り返ってみると、ジグゾーパズルのピースをつなぎ合わせていくイメージが思い浮かぶ。ただし、それは平面図ではない。時間軸が加わって立体像になっているはずだ。ささやかなものでしかないが。
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