2016年8月17日水曜日

アイスランドに「村」はない

前回、『ひつじ村の兄弟』という映画について書いたなかで、タイトルに苦言を呈したが、日本での配信戦略として見るなら、万人向き路線で手を打って、無難なタイトルに落ち着いたというところだろう。

タイトルの名づけのことはさておき、対象への理解を狭めているのは、生活形態の違いからくる言葉の意味のずれだ。どこにでもありそうな言葉だからといって、世界のどこへ行っても同じ概念で通るわけはない。
たとえば「村」がそうだ。日本でイメージする農村(田舎にある集落)は、アイスランドでは「田舎町」と呼ぶしかない。

アイスランドの農業の基本は牧畜で、農家(つまり農場)はそれぞれが孤立していると思えるくらい離れていなくてはならない。
夏のあいだ家畜に草を食ませるため、また、冬季の飼料として備蓄しておくため、牧草が生える土地が広ければ、それだけ多く羊を持つことができる。

映画の舞台になっている土地の住民は、自分たちの地区のことを「われわれの谷」と呼んでいる。山脈やまなみのあいだに広がる平地のことを言っているのだ。丘陵の麓に家屋と畜舎を構え、陽当たりのいい傾斜地と平地で放牧し、牧草を生やす。平地の中央に水路が切ってあって、斜面から流れ落ちる雨はここに流れ込んで排水されるようだ。

独立自営農場主として自尊心高く暮らしているつもりでも、それぞれの牧畜農家は行政上の地区に入れられて、国家の下にあるからには、一国一城の主を気取ってばかりはいられない。

その地区で牧畜を営むのは、グンミとキッディのほかはみな若い世代で、農場育ちでさえない。品評会やその他の目的で集会所に集まってくる面々の立ち居振る舞いでそれがわかる。町の住民が、独立農場主の生活にあこがれて、廃業した農場で牧羊を始めたということのようだ。羊の品評会のあとの宴会で声をそろえて〈Á Sprengisandi 〉を歌う場面がそういう背景を語っている。
この歌にうんざりして、グンミは集会所の外に出たのだ。

『スプレンギ砂漠越え』--アイスランドの国民唱歌のなかでも、圧倒的に人気が高いナンバーだ。民謡とみなされることもあるが、作詞者も作曲者も知られている。
馬を走らせ、難所の砂漠を通りぬける旅人の心象が描かれた歌詞。そこにメロディが、乗馬のリズムを刻んでいく。両者の緊密な掛け合いが、この歌の魅力を語っていて、長らく歌いつがれてきたのもよくわかる。
その点で、日本の『花(隅田川)』のような唱歌にたとえていいかもしれない。あるいは北原白秋や三木露風の叙情味あふれる(多分に絵空事の)詞による唱歌が思い浮かぶ


スプレンギサンドゥルはアイスランド内陸高地の砂漠で、火山灰の堆積が黒々とした不毛の地となって広がり、独特の荒涼たる景観を作り上げている。冬は積雪のため、春は雪解け水の川と化して、そこは交通路として使うことができず、夏のあいだだけ通ることができる。古い時代、ここを馬で通り抜けようとすると、水もない、草地もない長丁場で、「馬がくたばる (sprengja) 砂地 (sandur) 」といわれ、この名前で呼ばれてきたそうだ。
(わたしのなかでは「sprengi(噴火)でできた砂漠」のイメージが根付いてしまって、「火山灰砂漠」とか「黒い砂漠」と呼びたい気がする)。


Sprengisandur
『スプレンギ砂漠越え』の歌は、19世紀後半に活躍した詩人、グリームル・トムセンの詩がもとになっている。作曲はシグヴァルディ・カルダローンスとシグフース・エイナルソン。別バージョンのメロディもある。

(次回に続く)

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