老いてからのボビー・フィッシャーは、ホームレスと見紛う風貌を見せている。偏屈ひとすじの歳月に作り上げられた険のある顔を、さらに髭が野放図に覆っている。
その孤影が別の偏屈男たちの姿にかぶさる。アイスランド映画『ひつじ村の兄弟』に登場する老いた二人の兄弟だ。
その孤影が別の偏屈男たちの姿にかぶさる。アイスランド映画『ひつじ村の兄弟』に登場する老いた二人の兄弟だ。
そもそも、この日本上映のタイトルには、何か勘違いさせようという意図でもあるのか? 素朴で心なごむ作品と思って観てくださいよ、とでも?
原題はHrútar、英語版ではRams。ただ単に『牡羊たち』。何のてらいもない。即物的な題名にふさわしく、描写は冷厳だ。
主人公の兄弟は、アイスランド内陸部の牧羊地帯で、祖先から受け継いだ、今や希少種となった系統の羊を飼育しながら、同じ農場で別々に暮らしてきた。
弟のグンミ(本名グズムンドゥル)は、父親の遺志で農場を引き継ぐことになっただけあって、目端が利く。兄のキッディ(本名クリスチャン)はそのことを根に持ちながら、そのまま居すわって牧羊を続けるしかなく、いささかだらしない。キッディは弟に口をきくことさえない。そんな暮らしも、もう40年になる。言葉をかわさないかわりに、言いたいことがあれば、用件を書いた紙を犬に運んでもらう。そうやって生活上の最低限のつながりはたもってきた。兄弟の確執すら、もはや二人を結びつける絆となっているかのようだ。
伴侶を持たないまま老齢に達してみれば、兄弟どちらにとっても、自分が繁殖させてきた羊だけは、まちがいなく、かけがえのない家族、財産となっていた。
冒頭から、場面は不吉な気配をただよわせている。放牧地で兄の羊が死んでいるのをグンミが見つけ、一抹の不安がよぎる。
それからまもなく、二人の農場の属する行政区で恒例の羊の品評会が開かれて、キッディの羊が優勝した。品評会は宴会へと続いていく。地区の集会所で若い連中といっしょに楽しめないグンミは外に出て、自分を出し抜いたキッディの羊どもを検分してやることにした。
そこで彼の不安は的中する。もはや隠しようがない。羊の伝染病の徴候が見てとれたのだ。それは「スクレイピー」と呼ばれる、羊・ヤギ類に特有の神経系の病気で、いまだに治療法がなく、発生したら、伝染をくい止めるため、ただちに近隣一帯の群を隔離し、殺処分するしかない。
グンミはすぐさま自分の農場に引き返して、大切にしている羊たちのなかでも特に逞しい現役の種牡と若牡、それに若くて健康な牝を何頭か選び出し、よく消毒してから、見つからないよう羊舎の地下室に移動させる。それから翌日、そ知らぬ顔をして郡の保健衛生局に通報する。
冒頭から、場面は不吉な気配をただよわせている。放牧地で兄の羊が死んでいるのをグンミが見つけ、一抹の不安がよぎる。
それからまもなく、二人の農場の属する行政区で恒例の羊の品評会が開かれて、キッディの羊が優勝した。品評会は宴会へと続いていく。地区の集会所で若い連中といっしょに楽しめないグンミは外に出て、自分を出し抜いたキッディの羊どもを検分してやることにした。
そこで彼の不安は的中する。もはや隠しようがない。羊の伝染病の徴候が見てとれたのだ。それは「スクレイピー」と呼ばれる、羊・ヤギ類に特有の神経系の病気で、いまだに治療法がなく、発生したら、伝染をくい止めるため、ただちに近隣一帯の群を隔離し、殺処分するしかない。
グンミはすぐさま自分の農場に引き返して、大切にしている羊たちのなかでも特に逞しい現役の種牡と若牡、それに若くて健康な牝を何頭か選び出し、よく消毒してから、見つからないよう羊舎の地下室に移動させる。それから翌日、そ知らぬ顔をして郡の保健衛生局に通報する。
ただちにキッディの農場で検疫がおこなわれ、全頭殺処分が命じられる。当然、処分はそこにとどまらず、地区全体の農場にもおよぶ。グンミは秘蔵の羊たちを見つけられないよう、自分の農場の羊は自分の手で処分した。
Kiddi(Theódór Júlíusson) / Gummi(Sigurður Sigurjónsson) |
だが、羊たちをずっと隠し通せるものではない。何かと関係者の出入りもあって、グンミの秘蔵っ子たちは見つかってしまう。そこに手を貸したのが兄のキッディだった。すぐに羊たちを山の上の避難小屋に連れていくのだ。兄弟で雪上車にまたがり、群れを追い立てていく。だが、その夜の雪嵐はあまりにひどかった。闇の中で群れを見失い、捜しに出たグンミは途中で力尽きて意識を失ってしまう。キッディに残されたのはこの弟の命だけだ。雪の吹き溜まりに風除け穴を掘って、その中にグンミを引っ張り入れ、その体を自分の素肌で抱きしめ温めようとする。世界を切り裂くようにブリザードの音が鳴り響いている。
監督・脚本はグリームル・ハウコナルソン(2015)。同年のカンヌ国際映画祭〈ある視点部門〉でグランプリ。
この作品は滅びゆくものたちの物語だ。
血統を絶やさないよう何とか守ってきた羊の品種。守り手は兄弟二人だけ。今では老いた独り身だ。種牡と、すでに孕んだ牝羊たちはブリザードのなかで、二人の兄弟は、生の最後のともしびを絶やすまいと温め合うなかで、おそらくそのまま凍死することだろう。結末は描かれない。観る者の気持ちはそのまま虚空に置き去りにされる。
そのためだろう、いろんな連想が引き寄せられるのだ。
フロベールの『聖ジュリアン伝』の最後が思い浮かぶ。
北海道の寒波のなかで亡くなった人たちのことが思い出される。2013年3月、時ならぬ雪嵐に襲われたときのことだ。とりわけ幼い娘を抱きかかえたまま死んだ父親の話にみな落涙した。年がいってからさずかった一人娘を何とか生き延びさせようと、自分の上着を脱いで娘をくるみ、覆いかぶさるように抱きしめている姿で発見されたのだ。女の子は生きていた。
『主よ、御許に近づかん』という賛美歌が、滅びゆくものたちに寄り添ってくれる。
映画『タイタニック』では、このNearer My God to Thee(賛美歌320)の旋律が、豪華客船の最後を見届けるように静かに流れていた。
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