国民投票ではイギリスのEU離脱が勝ちを決めた。やっぱり投票日を夏至の時期にしたのがいけなかったのかしら。一夜明け、真夏の夜のおかしな夢からさめてみると、とりかえしのつかない現実を前にして、おおぜいが二日酔いの頭を抱えこむことになった。
それ自体は手続き上の案件として、進めてゆけるだろう。ところが、今さらながら、世界中があわてふためいている。
イギリスのEU離脱の心理的影響たるや、満ち潮のようにふくらんで、しかもそれが引いていく気配がない。何よりも、ほかの国の離脱をうながし、EU参加国内の民族独立までうながして、それが今後、どれほど大きな問題となることか。
イギリスのEU離脱の心理的影響たるや、満ち潮のようにふくらんで、しかもそれが引いていく気配がない。何よりも、ほかの国の離脱をうながし、EU参加国内の民族独立までうながして、それが今後、どれほど大きな問題となることか。
とっさにソ連崩壊の時のことが思い浮かんだ。不本意に国家に組み込まれていた民族集団が、1991年のソ連崩壊を機に、つぎつぎと自己表明を始め、それがその後長く続く紛争へと発展していった。
この崩壊はもちろん国民投票のように一夜にしてなったものではない。当時の共産党書記長ゴルバチョフの進めてきた改革路線によって、それまでの軛くびきが解かれていくなかで起きたのだ。ソ連が東欧の国々に対する支配的立場を降りてまもない1989年、ハンガリーがオーストリアとの国境を開いた。そのすぐあとポーランドが選挙を実施して「共和国」になった。
ちょうどその時期、わたしは夫といっしょにハンガリーをめぐっていたこともあって、当時の歴史的変動を垣間見るという体験をした。
以前このブログで書いたように、1989年6月、わたしはコペンハーゲンから列車でブダペストへ向かっていた。ハンブルクで乗り換えたウィーン行き寝台車では、コンパートメントの相客は女性二人だけ。窓際にすわるひとりは、卓の上に書類の束を置いて、いかにも仕事中というふうに、印刷文字の埋まった紙面にペンでチェックを入れていた。これから本になる原稿のゲラを点検しているように見受けられた。いつのまにかこの人とのあいだで会話が始まった。わたしがこれから行くハンガリーのことを話しているうちに、当然、トランシルバニア問題の話題になった。そこで紛争が起きていることは、わたしも承知していた。
「このトランシルバニアについて、日本の報道ではどうもよく理解できないでいるのですが」
わたしの手の内がゼロに近いと見たのか、彼女は諄々と説いてくれた。ルーマニアの西のトランシルバニア、ハンガリー語でエルデーイですね、ドイツ語ではジーベンビュルゲンと呼ばれ--これは「7人の町民」という意味の奇妙な地名なのですが(ここのところは彼女の説明そのまま)--過去にドイツ人が植民に入ったこともある土地です。近年までハンガリー領だったこともあって、ハンガリー人が多く住んでいます。そこへルーマニアのあの独裁政権が、自国の経済破綻をとりつくろうため、トランシルバニアで農業再編をするとかいって、村々の農民を強制的に立ち退かせているのです。ハンガリー系が多数いることから、国際問題になっています。
ブダペストで夫と合流し、レンタカーで国内を移動して回った。そういうなか、民俗音楽祭があるとの情報を頼りに訪れたのが、ルーマニア国境に近い町セゲド(Szeged)だ。音楽祭は学校の施設を借りて、地元民が練習してきた合唱や踊りを披露するという、ローカルでなごやかなものだった。催し事のにぎやかしには欠かせないジプシー・バンドも、金管楽器の派手な音を響かせていた。
そこでわたしたちの回りに人々が集まってきた。すぐそこのエルデーイでわれわれの同胞たちがどんなひどい目にあっているか、と口々に訴え、日本に帰ったらぜひつたえてほしい、と言った。
ハンガリーでは巨大なキャンプ施設に泊まったこともある。
その年日本で、刻々と展開していく東欧の政治状況を追いながら、自分たちもあの場に居合わせたのだと、あらためて思いをいたすことがあった。
あの夏、ハンガリーに東ドイツから人々が静かに流入していた。かたくなに国を閉ざしていた東ドイツも、同じ東欧圏内なら移動ができたので、嗅覚のはたらく東ドイツ人がまっさきにハンガリーに入って、キャンプ生活をしながら、オーストリアとの国境のようすをうかがっていたのだ。
その年日本で、刻々と展開していく東欧の政治状況を追いながら、自分たちもあの場に居合わせたのだと、あらためて思いをいたすことがあった。
あの夏、ハンガリーに東ドイツから人々が静かに流入していた。かたくなに国を閉ざしていた東ドイツも、同じ東欧圏内なら移動ができたので、嗅覚のはたらく東ドイツ人がまっさきにハンガリーに入って、キャンプ生活をしながら、オーストリアとの国境のようすをうかがっていたのだ。
八月、事のなりゆきは、痛快な大脱走劇といっていいあざやかな展開を見せた。それは一見のんびりしたピクニック気分以上のものではなかった。ところが、オペラの大団円のように、クライマックスに至って当事者たちの役柄が一挙にフィナーレになだれこんだ。オーストリア側に設けられた鉄条網は勝手に壊れる、国境のゲートは勝手に開く、バスが運んでくる東ドイツ人たちがスキップしながら国境を越え、オーストリアに入っていくと、そこには西ドイツへ向かうバスが待機している、といったぐあい。「汎ヨーロッパ・ピクニック」と呼ばれる政治ドラマである。
その年の終わり、ルーマニアの独裁者が妻とともに人民裁判にかけられ、その場で処刑されるという陰惨な出来事もあったが、東欧諸国の民主化は予定されていたように進行し、巨体ソビエト連邦の崩壊へとなだれを打って進んだ。
あの時代のヨーロッパはどれほどわかりやすかったことか。
今のハンガリーは南のセルビアとの国境に長々とフェンスを作って、押し寄せてくる難民を阻止しようとしている。
今のハンガリーは南のセルビアとの国境に長々とフェンスを作って、押し寄せてくる難民を阻止しようとしている。
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