2016年6月21日火曜日

1971年の北アイルランド

雨雲が空中で雲散霧消してしまうのか、東京では、予報に反して降らない日が続いている。梅雨のさなかの夏至の宵、満月が昇ってくるのが見える。気象の変動の範囲内ではあるのだろうが、えがたい僥倖。一年でいちばん長い日の日没と月の出を拝めた。

イギリスのEU国民投票の日が夏至の時期に設定されたことについては、何らかの深慮があるのだろうか。少なくとも冬季よりは人々の気分は明るく、肯定的な判断を下しやすいはずだ。

少し前、イギリスの元首相、メージャーとブレアの二人が手に手をとって、EU残留を訴えるため北アイルランドを訪れた。
そんなことをしなくても、北アイルランドがEU残留を選ぶのは確実だ。でも、仮にイギリス全体で離脱ということに決まったら、地続きのアイルランド共和国との和平合意が危うくなる、と広く訴えている姿勢はわかる。共和国への帰属を求める北のカトリック系住民と、ブリテンにとどまりたいプロテスタント系住民との軋轢が長く続いたあと、ようやく念願の和平にこぎつけたのだから。

1971年夏、北のテロが激しさを増す直前、わたしはアイルランドに足を踏み入れることになった。紛争の起きている地域を旅するだなんて、今思えば、無知が無謀を呼び寄せたと言うしかない。

アイスランド大学での初年度が終わって、長い夏休みに入ると、わたしはすぐに始められる仕事についた。魚を輸出用に加工、冷凍する現場、早い話が魚工場だ。扱うのはタラやオヒョウといった大型魚が大半で、専用の機械の内部で頭と内蔵と骨を取られて出てくる半身を、計量しながら箱に詰める作業がひたすら続く。これはヨーロッパ向けだ。頭を取らずに丸ごと箱詰めするものはソ連向けだと聞かされた。
何の技量もいらない単純作業が進行しているなかに、特別な区画が設けられていた。アメリカ合衆国向けにヒラメの薄切りを仕上げる作業場だ。フィレから小骨と寄生虫をピンセットでとりのぞき、ラップでくるんで小箱にこぎれいに詰めるのは、熟練を要する仕事だった。

わたしはそうやって夏を過ごす資金を稼いだ。その夏、ヨーロッパを旅して回るつもりでいた。(あの当時、日本は個人の外貨持ち出し制限をしていて、上限が1000ドルに引き上げられたのが前の年のことだった)。
アイスランドから空路でいちばん近い「ヨーロッパ」の都市はグラスゴー。大まかな移動計画はできていた。スコットランドから北アイルランドに渡り、ダブリンを経由して、イギリスに入り、ふたたび海路で大陸に到達したら、ユーレイルパスを利用して移動して回るのだ。


灰色じみたグラスゴーの町を早々に退散し、ベルファスト行きの船に乗った。そこで北アイルランド案内の冊子を手に入れて、ようやくわたしはめざすべき場所を見つけた。ラウンドタワーだ。アイルランドでバイキングの襲撃と略奪が繰り返されていた10世紀前後、財宝があるとして狙われた僧院では、襲われたら逃げ込めるよう、円柱型の石造りの塔を建てた。それらが湖の中の島にまだ残っているのだ。わたしの「島好み」感覚が大いに刺激された。

ベルファストに着くなり、酔っぱらいに遭遇し、早くそこを退散せねばと、その日はロンドンデリーに向かうことにした。無知な旅行者は知らなかったが、このデリーこそ、激しい紛争地のひとつだった。
その日の宿を決めたあと、ただ歩いて回る能天気な旅行者は若いアジア系の女で、朱色のレインコートを着ている。これが当地でどんなに雑音となったか、あとになって思いめぐらすことになった。すれちがった若いイギリス兵がトランシーバーに向かって 'A young lady warns us' と言うのが聞こえた。当今なら自爆テロ予備軍と疑われたろう。無知な者にはそれが高揚感をもたらした。

町を分けている川の端へ降りていくと、並木の植わった川べりに監視ポストが設けられ、歩哨が立っているのが見えた。
夕方のその情景は、映画のような構図を作り出していた。並木のあいだの監視ポストにさしかかったとき、そこへひとりの若い女が駆け寄った。と思うまもなく、歩哨の男とひしと抱き合った。上と下の二人は70センチくらいの段差があったろうか。女がせいいっぱい伸び上がったところを、男が思いきり身をかがめて抱きすくめた。決定的かつ劇的な抱擁。
つぎの瞬間、川べりの道路ぎわに並ぶ家々にわたしの注意が向いた。長屋のように隙間なく並ぶカトリック地区の家々が、文字どおり目玉と化していた。窓辺のカーテンの隙間から、半開きにした戸口のあいだから険悪な視線を送り、あるいは腕組みして歩道に立って、地区の女たちが、目の前の光景を憎々しげに眺めているのだ。英国兵と通じるなどという許しがたいまねをする娘に対して、最大級の侮蔑を送っていた。絞り出される愛憎の炸裂。
そこが異邦人のいるべき場所でないことは即座に理解できた。

(この項、次々回(映画『ライアンの娘』)に続く)

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