2018年9月14日金曜日

体験を語る手段--佐藤優『十五の夏』を読んで


前回、ようやく飼い猫の死について語ることができた。だが、その前に、体験を語る手段について考えねばならなかった。

同じ頃、佐藤優の『十五の夏』(幻冬社・2018)の上巻を読んでいた。その本が、思いがけないことに、体験とは何かという疑問を誘発したのだ。
それは1975年、著者が高校に入って最初の夏休みを、東欧・ソ連をひとり旅して回った体験記だ。

上巻1冊で433頁もあるこの大部の作は、同時代の情報だけでも、詳細をきわめていて、息苦しいほど。それをやわらげるように、行く先々で出会った人々との会話が、要所要所にさしはさまれる。そういう軽やかなやりとりが、15歳当時のういういしい心を描きだしている。

ジャンル分けに従うなら、本書は「ノンフィクション」に入れられるのだろう。詳細な事実に関しては、当時の旅の記録にもとづいているにしても、著者と現地の人々との会話仕立ての描写はどうとらえるか。一番引き込まれる部分であり、それだけに、体験を逸脱するものと思ってまちがいない。まだ幼さを残す15の心を表明するには、自分の思いを相手から引き出してもらう会話・問答の形式がふさわしい。
著者は会話という容れ物を選んで、そこに15歳の自分が持っていたはずの葛藤を投入した。

当時、心にわだかまっていたあれこれのこと--自分は将来何をしようとしているのか、学校生活で日々感じている不満や疑問、教師や両親が自分に期待してくれていること。それらの思いが、出くわす人々との対話の形で、ライトモチーフのように幾度となく反復される。
出会う人々は、同年代の若者であれ、彼らの両親であれ、ホテルやレストランの案内係、通りすがりに声をかけてくる人々であれ、皆、何らかの形で15歳の心をひもといて、指針となる言葉を与えてくれるのだ。まるで前もって定められていたかのように、15歳当時の精神が、新たな出会いのなかで吟味され、確認される。

若者がその後数奇な運命に翻弄され、そこから生み出された著作の数々が万人に読まれ、多大な影響をおよぼすようになった事実を読者が知っていればこそ、それらの出会いに深い意味が感じられる。
そういう会話は、実際その通りにかわされたわけではなく、フィクションだとしてまちがいないだろう。
体験を定着させようとすれば、何らかの形のフィクションとなるしかないのだ。

著者は自分流の(すでに手慣れた)容れ物を使って、15の自分の心を語ることができた、という点において、この本はりっぱに体験記を名乗ることができる。


(ついでに)
不来方の
お城の草に寝ころびて
空に吸われし十五の心
(石川啄木『一握の砂』1910年刊所収)

2018年8月31日金曜日

体験の容れ物、この夏


今しも自分が体験していることを、体験として残すには、どのようにすればいいのか?
目の前で見、聞き、匂い、感じることを、実況中継にして延々ボイスレコーダーに語りかけたとする。
残された音声をあとで再生してみて、はたしてそれを自分の体験だと実感できるか?おそらくできない。
そこでは「混沌」というものに直面するしかないだろう。形になることを求めている何かがうごめいているばかり。とはいえ、当時の情報が、たとえ細切れ状であれ、刻み込まれているはずだから、何かの役に立たなくもない。

そんな思いにとらわれているのも、この夏、7月8月の、酷暑と言おうが猛暑と言おうがとうてい言い足らない、形容しがたい暑さに打ちのめされながら、営々とやってきた過程があるからだ。
それらの細かなことどもは、時系列の枠にも、感情表現の方式にも、とうてい収まってくれそうにない。現在進行形で起きていることどもは、ひとりの個人を離れた、何か特別の容れ物を必要としていた。

この夏、19年の年月を共にしてきた飼い猫が、最後の時を迎えようとしていた。そのことは明白だった。わたしは猫が生を脱する過程を刻々と追っていた。
最期を迎えるまでの1カ月余り、「わやん」は生を終えるための内なる手順に従って生きていた。わたしはそれを随時手助けするだけだった。

足どりが不確かになり、体を支えようとしてか、足を踏ん張って、頭を上へ下へと向けた。一年前から失明していた両目をいっぱいに見開いて。
わたしはその姿を、美術作家、小松美羽の作品『天地の守護獣』に重ね合わせた。生の終わりに神々しい姿をとることもあるのだ。驚嘆しつつ、そう理解した。




それから足が立たなくなった。それでも、手足を泳がせるようにもがき進むことだけはできるあいだは、寝床を汚さないようつとめていた。寝床をもがき出て、排泄するのだった。

そのあと身動きすらままならなくなった。それでも、約束事をおろそかにしてはならないとでもいうように、食べ、水を飲み(人の手を借りてではあるが)、生きる意欲を見せた。体は痩せていくだけだった。

骨と皮となったその姿は、中世の説話(説経節)の登場人物だった。異形の姿になりはてた小栗判官をわたしも引いていた。説経節語りが合いの手に入れる「えいさら、えいさら」という掛け声ばかりが、寄せ波のように頭の中でこだました。
 
小栗判官・絵・一ノ関圭

8月、月齢が最終日を迎える頃、大潮の引き潮に乗ってこの世を去ると決めていた、わやんは。
壮年の頃はみごとな跳躍ぶりを讃えられていたわやんも、たまには失敗することもあったよね。
引き潮に乗れなくて、仮死の状態からよみがえること2度、ついに日付が変わったばかりの引き潮の刻、わやんは吐息と共に波に乗って出ていった。


2018年2月27日火曜日

谷川知子さんのこと④


知子さんという人を、困った人であるかのように描いてしまったようだ--事実、多くの人を困らせてきた--が、もともと面倒見がよく、気っぷのいい人だった。「姐御肌」という言葉どおり。ただし現実には、姉どころか、末っ子の五女だったそうだ。
「五女よ、ごじょ。だからゴジョゴジョしてるの」
と、彼女は定番の軽口を飛ばした。

ある夏休み時期、わたしは甥姪になる小学生の兄弟姉妹4人をしばらく預かったことがある。そのとき知子さんは、北軽井沢にある谷川家の別荘に来たら?と声をかけてくれて、わたしは喜んで誘いに乗った。

子供たちの前で知子さんは、きびきびと行動し、こまかいことにまで目配りした。末の小学1年生の女の子が「なんか先生みたい」と言うだけあって、ちょっとした威厳が感じられた。約束を守らなかった男の子は短い言葉でビシッと叱られた。
以前の知子さんはそんなふうだったろう。その揺るぎないたたずまいでもって、堅実な家庭を維持してきたのだろうな、と思わせた。

話は変わるが、昨日、文京区の弥生美術館で「滝田ゆう展 ~ 昭和×東京セレナーデ」を見てきた。



滝田の漫画をわたしは、初期の頃の雑誌『ガロ』で同時代的に知っている。しかも、なめるように眺めていた。彼が子供時代を描いた絵は、まるで自分の体験のように思えてくる。かつて東京の東にあった花街の絵は、シャガールが描く子供時代の村と同様、見る者に既視感を起こさせるのかもしれない。

美術館で、滝田ゆうの生年月日が、谷川俊太郎と10日しか違わないことに思い当たって、わたしは軽い目眩をおぼえた。自分の内で描いていたひとつの絵柄が、同じ時代と思えないほど、もうひとつの絵柄とかけ離れていた。

一方は、生まれた時点で母を亡くして、色街で飲み屋を営む叔父夫婦に引き取られ、とにかく人の道をはずれちゃいけないという養母の信念のもと、度はずれに厳格な育てられかたをした。
もう一方は、日本の文化をになう学者の家に一人っ子として、しかも帝王切開によって生まれ、母親に溺愛されながら自由に育ち、暑い夏は北軽の学者村にある別荘で過ごした。

知子さんも、滝田ゆうと同時代、同じ東京東の下町で育った。といっても、戦後文化の恩恵を十分に受けられる環境だったようだ。それでも、演劇を修行していた文学座では、下町出身は珍しかったらしく、一度、劇団で盗難があったとき、自分に疑いの目が向けられたのだと、実にくやしそうに話してくれた。

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名前とはうらはらに、知子さんは「知」の人ではなかった。感情に大きく支配されている一方、運動神経から発されるような彼女のコメントは、こちらがとばっちりを受けないかぎり、おもしろがって聞いていられた。
だが、運動神経で渡っていこうとすれば、現実のいろんな場面で、誤解やくいちがいが生じる。臨機応変に反応しても、それが理解と結びついているとは限らない。

ある画廊でパフォーマンスがおこなわれたときのこと。会場が狭いので、出演者の妨げにならないよう、ここの場所はあけておいてください、というアナウンスがあった。すると、知子さんはすぐに立ち上がって、あけておくよう言われた場所にさっと座り込むのだった。

アメリカにとどまっていた娘の志野さんが、ボーイフレンドを連れて一時帰国していたおり、知子さんはわたしを誘って、4人で映画を観に行くことになった。志野さんの友人は映像作家を目指しているという。娘たちの会話に加われないので、知子さんはわたしを仲立ち役にするつもりだったようだ。
志野さんが選んだ映画は、名画座で上映していた『赤い影』。ニコラス・ローグ監督の、今でも見応え十分な心理サスペンスだ。わたしはすでに観ていたが、2度目を観るだけの価値はあった。その入り組んだ仕掛けがわからなくても、映像に吸い込まれ、恐怖がひたひたと迫ってくる。
映画館で、目が離せない恐怖の映像のさなか、知子さんは居眠りをしてしまった。
終映後、いっしょに食事をしながら、わたしたちはさっき観た作品について話すことがたくさんあった。でも、知子さんときたら、ちっともついてゆかれなかったわ、と悪びれずに白状するのだった。

俊太郎氏と別居してからの知子さんが、自分を発揮する場はどれほどあったろう。少なくとも、彼女は大きな闘争の種を抱えていて、それが自分の生命力をかけて挑む目標となっていた。これについて、わたしは当の本人から具体的に聞かされていた。それは事実ではあっても、真実としての姿を示すことはない。もちろん、わたしが語るべき事項でもない。

『詩人なんて呼ばれて』では、谷川俊太郎が3度目に結婚した佐野洋子について多くが割かれ、たいへん興味深い章となっている。この部分で、俊太郎本人は妙に言葉を濁している。
佐野洋子は結局、俊太郎に批判を浴びせたすえ去っていくのだが、そういう批判の言葉の数々が、知子さんが発した言葉のようにわたしには思えてならない。

知子さんは、文章や絵という表現手段を持たなかったから、感情や動物的な勘に頼って、結果的に周囲の顰蹙を買うこともあった。

「まったく、ソクラテスの妻なんだから」
わたしは彼女のことを人にこぼしたおぼえがある。われながら何とも通俗的な言い回しに頼ってしまったものだ。

世に言う「悪妻」とは、哲学者なり文学者なりを完璧で立派な神輿として担ぎたい人たちによって作り上げられた人物像でしかない。21世紀の今、悪妻などという言葉は追放してやればいい。

わたしは佐野洋子氏を讃えたい。その言葉はまちがいなく、女たちに活力を与える。加えて、彼女が谷川知子という人を代弁してあげていることをここで強調しておきたい。

2018年2月25日日曜日

谷川知子さんのこと③


ジェーンは早いうちに知子さんの監視下から逃れて、独立した生活を送るようになったはずだ。

ほどなくして知子さんは、京王線の郊外駅に直結するマンションを、ここぞとばかりに選んで購入し、晴れて自分の住まいを手に入れた。そこを選ぶ決め手となったのは、俊太郎の次ぎなる相手、佐野洋子が以前から住んでいた家に近い、という理由もあったようだ。
そこもまた多摩川べりだった。わたしの知っていたあたりからすると、ずっと上流になる。

〈両国フォークロアセンター〉に知子さんを連れていったときのことを思い出す。
そこは一種のライブハウスで、わたしにとっては「ブリティッシュ・トラッド音楽愛好会」の集まりがあるとき出向く場所だった。
ふだんは、ジャンルを問わず、演じたい人に開かれているらしく、『ぴあ』などの雑誌でライブ情報を知ることができた。
ライブハウスといっても、外観は下町の密集地によくある一軒家で、階下では蕎麦屋が店を構えている。その横手に階段があって、履物をぬいで上がると、2階の部屋全体がライブスペースだった。
階段を昇りきったところの狭い半端なスペースにささやかなキッチンがあって、マスターのKさんがそこに待機していた。ライブであれ、懇親会であれ、利用者がその場を取り仕切ってくれればいいというふう。
物静かなマスターは、注文に応じて、飲み物や軽食を作って出すときだけ部屋に入ってきた。

その日は津軽三味線の弾き語りをする女性が出演するというので、わたしは知子さんをさそって両国に出向いたのだ。
そこが知子さんにとって最悪の場所となったとしても、それは自身の乱心のなせるわざだったし、はたから見ると、じつに奇怪な光景が繰り広げられた。

平日の昼間ということもあって、その場には、わたしたち二人のほか、中年の男が二人いるだけだった。
津軽三味線にふさわしい和装で決めた若い女性は、定番の「じょんから節」や「よされ節」をひとしきり弾いてから、観客に向けて語り始めた。
「前回こちらで弾いたとき、詩人の諏訪優さんがいらしていて、印象深いお話をなさって・・・」
そのとたんに知子さんの顔色が変わった。顔の筋肉が弛緩したと言うべきか。吐き気をもよおした人の顔つきだった。

あとでわたしは、それと同じ顔を見たことがあるのを思い出した。映画『エクソシスト』の中だ。悪魔払いを受けている少女が、嫌悪のあまり嘔吐するときの表情がそんなふうだった。
知子さんにおいては、「詩人」という言葉に対する過剰反応だったろうか。


三味線の女性は、軽い語りのあと、演目を再開し、
「それではつぎに『リンゴ追分』を歌います」と言って、三味線は脇に置いて、無伴奏で歌いはじめた。
知子さんは壁にもたれていた姿勢からずり落ちるように寝そべって、脱いであった上着で顔をすっぽり覆った。激しい嫌悪の厚い雲が垂れ込めていた。また、それを人目にふれさせまいとしていた。

その日の演目が終わって、演者の女性は二人の男性と話をかわした。
知子さんが話に加わることはなかった。
それよりも、彼女は別のことに言いがかりの種を見つけた。マスターのKさんが飲み物をとりかえている最中、どういうわけか「ふふ」と笑いをもらしたのだ。
「ちょっと、あなた、今なんで笑ったのよ!」知子さんがきつい口調でとがめた。
マスターがかならずしも常識人ではないことは、わたしにはわかっていた。それにまた、そんなとがめかたをされるような場面でもない。
わたしはあわてて、マスターの困惑顔を前に、いらざる弁解をしてみせた。
「だからねー、あのかたの個性なんだって。風のようなものなのよ」
それを受けて、中年客のひとりが絶妙な合いの手を入れた。
「両国には~、また、いろんな風が吹くようで~」
まるでこれから落語を始めようとしているみたいだ。一同、笑いで応じて、その場は収まった。

『リンゴ追分』は1952年、15歳の美空ひばり主演の映画で大ヒットした歌だという。
ライブの場で、わたしは女性の演奏と声に耳を傾けるだけだったが、知子さんからすると、自分の大切にしている世界の一角に、ずかずか踏み込まれるも同然に思えたのかもしれない。