前回、ようやく飼い猫の死について語ることができた。だが、その前に、体験を語る手段について考えねばならなかった。
同じ頃、佐藤優の『十五の夏』(幻冬社・2018)の上巻を読んでいた。その本が、思いがけないことに、体験とは何かという疑問を誘発したのだ。
それは1975年、著者が高校に入って最初の夏休みを、東欧・ソ連をひとり旅して回った体験記だ。
上巻1冊で433頁もあるこの大部の作は、同時代の情報だけでも、詳細をきわめていて、息苦しいほど。それをやわらげるように、行く先々で出会った人々との会話が、要所要所にさしはさまれる。そういう軽やかなやりとりが、15歳当時のういういしい心を描きだしている。
ジャンル分けに従うなら、本書は「ノンフィクション」に入れられるのだろう。詳細な事実に関しては、当時の旅の記録にもとづいているにしても、著者と現地の人々との会話仕立ての描写はどうとらえるか。一番引き込まれる部分であり、それだけに、体験を逸脱するものと思ってまちがいない。まだ幼さを残す15の心を表明するには、自分の思いを相手から引き出してもらう会話・問答の形式がふさわしい。
著者は会話という容れ物を選んで、そこに15歳の自分が持っていたはずの葛藤を投入した。
当時、心にわだかまっていたあれこれのこと--自分は将来何をしようとしているのか、学校生活で日々感じている不満や疑問、教師や両親が自分に期待してくれていること。それらの思いが、出くわす人々との対話の形で、ライトモチーフのように幾度となく反復される。
出会う人々は、同年代の若者であれ、彼らの両親であれ、ホテルやレストランの案内係、通りすがりに声をかけてくる人々であれ、皆、何らかの形で15歳の心をひもといて、指針となる言葉を与えてくれるのだ。まるで前もって定められていたかのように、15歳当時の精神が、新たな出会いのなかで吟味され、確認される。
若者がその後数奇な運命に翻弄され、そこから生み出された著作の数々が万人に読まれ、多大な影響をおよぼすようになった事実を読者が知っていればこそ、それらの出会いに深い意味が感じられる。
そういう会話は、実際その通りにかわされたわけではなく、フィクションだとしてまちがいないだろう。
体験を定着させようとすれば、何らかの形のフィクションとなるしかないのだ。
著者は自分流の(すでに手慣れた)容れ物を使って、15の自分の心を語ることができた、という点において、この本はりっぱに体験記を名乗ることができる。
(ついでに)
不来方の
お城の草に寝ころびて
空に吸われし十五の心
(石川啄木『一握の砂』1910年刊所収)
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