ほかでもない「体験の容れ物」に傾注することになったのも、この夏、飼い猫の最期に寄り添う毎日を過ごしたからだ。
現在進行形で起きていることに浸りきっているさなかの体験は、記憶として後まで残るものとは違う。
ある種の体験は、意識の低下した状態(たとえば夢)に出来しゅったいする象徴や、神話・伝説でもって語るほうが、時系列で語るよりも真実味をおびてくる。わたしはそういう「体験の容れ物」を必要としていた。
佐藤優が15の歳で体験したひと夏は、独特の様式で描かれている。独自に編み出した形態の意匠のなかで、当時の自分というものを対話形式で語っているのだ。対話そのものも、どことなく古めかしい「自己形成小説(ビルドゥングスロマーン)」を読んでいるように感じられる。そこには限りなくフィクションの匂いがたちこめている。とはいえ、その形でしか表せない真実というものがあるのは認めなくては。
「体験の容れ物」をまず用意するのだ。わたしはそう思うにいたった。
「記憶」というのは、「自分なりに理解した」かぎりの絵柄ではなかろうか。そう見えたし、そうとしか考えられなかった--だからそう理解した、と言っているだけのこと。じつは自分がそういう絵柄として見たいがゆえに、そう見え、そうとしか考えられず、そのように理解するのかもしれない。あるいは、すでに自分のなかに先入観があって、既成の絵柄からそれに当てはまるものを選んでくるのか。
0 件のコメント:
コメントを投稿