気になっていた映画が早くもレンタル店に降りてきたので、DVDを借りて見ることになった。アイスランド映画『隣の影』。
原題は『木の下で』Undir trénu(製作年2017)。製作国 がアイスランド / デンマーク / ポーランド / ドイツとなっているところに何か事情がありそう。
驚いた。うーんと唸った。こんな風に翻案できるのか、古いアイスランド・サガを。
これほど国籍を感じさせず、すんなり今風に仕上げられたサガ作品を見られるとは。長生きはするものだ。
これには少し説明が必要だろう。
13世紀頃、アイスランドでは数多くのサガ作品が書かれたが、それらサガ群でも代表的ジャンルに分類される〈家族のサガ〉は、家族間の争い(family feud)、復讐の連鎖によって展開される。
ほんのささいな諍いがもとになって、相手方の家族(一族)に仕返しをし、されていくうちに(ことに女たちが自分方の男たちを煽るのだ)、報復はとどまるところを知らない。
小さな雪玉をころがしていくにつれ、それが大玉になって、最後は人を押しつぶしてしまうほどの破壊力を持つにいたるといったところか。
(さらに付け加えておくと、それらの物語は、無名のサガ作者たちから数世代さかのぼった父祖たちの身に起きた出来事なのだ。叙述の形態からすれば、歴史・年代記のジャンルに入れてもおかしくない。だが、おもだった登場人物たちはその言動で描写されるのが通例で、そこのところではフィクションに分類すべき)
(さらに付け加えておくと、それらの物語は、無名のサガ作者たちから数世代さかのぼった父祖たちの身に起きた出来事なのだ。叙述の形態からすれば、歴史・年代記のジャンルに入れてもおかしくない。だが、おもだった登場人物たちはその言動で描写されるのが通例で、そこのところではフィクションに分類すべき)
というところで、ようやく映画『隣の影』について。
ここでは家族間の報復が、しゃれたテラスハウスの隣同士である2組の夫婦の間で起きる。
ここでは家族間の報復が、しゃれたテラスハウスの隣同士である2組の夫婦の間で起きる。
きっかけは、初老の夫婦の敷地に生えている木が隣の庭に影を落とすことだった。妻が日光浴をする邪魔になるので、ちょっと枝払いをしてもらえまいか、と中年夫婦の側が頼んでくる。
たったこれだけのことがきっかけとなって、以後、これまでの不満が堰を切ったように吹き出し、互いに対する意趣返しが始まる。
最初は「大人の対応」をする余地もあったが、しだいに仕返しの手口が嵩じ、家族のメンバーや飼い犬まで巻き込んでいき、ついには双方の夫同士の死闘にまでいたる。
その闘いのサマにならないことといったら。手近な武器をとっかえひきかえして傷つけ合うばかり。一方が他方を倒して落とし前をつけるどころか、結局、共倒れに終わる(これがリアリズムってもの)。
最初は「大人の対応」をする余地もあったが、しだいに仕返しの手口が嵩じ、家族のメンバーや飼い犬まで巻き込んでいき、ついには双方の夫同士の死闘にまでいたる。
その闘いのサマにならないことといったら。手近な武器をとっかえひきかえして傷つけ合うばかり。一方が他方を倒して落とし前をつけるどころか、結局、共倒れに終わる(これがリアリズムってもの)。
最後の殺し合いのシーンは陰惨に見えるが(いや、陰惨のきわみだが)、現実の殺人というものは、このように実にぶざまなのだ。
アイスランド古代文学の定石を使って、こんな意表をつくおもしろい(?)映画を作り上げた監督たちに脱帽。
映画自体、舞台劇を思わせる簡素な作りである。極力アイスランド的な要素を排したロケーションが選ばれている。国外にロケ地を借りたのだろうか。
そもそも町なかにあんな高い木が生えているわけがない。アイスランドの大半の土地にも。
しかしながら、レイキャヴィクの町の実写はところどころ出てきてそれとわかる。
撮影は、国外に出向かずとも、念入りなロケーション選びですませたということにしておこう。
IKEA の店舗前の広い野原と、そのすぐそばを走るレイキャネス高速道路 Reykjanesbraut の実写が、かえってアイスランド離れして見える。
『隣の影』という日本語タイトルは、仕返しの応酬の発端でもあり、大いに納得できる。
そもそも町なかにあんな高い木が生えているわけがない。アイスランドの大半の土地にも。
しかしながら、レイキャヴィクの町の実写はところどころ出てきてそれとわかる。
撮影は、国外に出向かずとも、念入りなロケーション選びですませたということにしておこう。
IKEA の店舗前の広い野原と、そのすぐそばを走るレイキャネス高速道路 Reykjanesbraut の実写が、かえってアイスランド離れして見える。
『隣の影』という日本語タイトルは、仕返しの応酬の発端でもあり、大いに納得できる。
隣家に影を落とすという苦情のもとになった木は本物ではなさそうだ。舞台の大道具といったところ。
陽光を浴びた枝葉のアップ映像がさしはさまれるが、このシーンは別撮りだろう。葉の形からするとカエデのたぐいか。
登場人物たちが暮らす家は、どれも過剰なほどモダンな住環境といっていい。ローカルなもののかけらも見当たらない。全体的に舞台劇っぽく見えてしまうのはそのためだ。
陽光を浴びた枝葉のアップ映像がさしはさまれるが、このシーンは別撮りだろう。葉の形からするとカエデのたぐいか。
登場人物たちが暮らす家は、どれも過剰なほどモダンな住環境といっていい。ローカルなもののかけらも見当たらない。全体的に舞台劇っぽく見えてしまうのはそのためだ。
人物たちの造形は都会風に洗練された風で、男たちはマッチョからほど遠い、ものわかり良さそうな面々だ。
最初のほうで明かされるが、初老の夫婦の側には、家族の宿痾のような悲劇的事実がのしかかっている。だいぶ前、一家の長男が失踪してしまったのだ。あの国でよくあるように、入水したのはまちがいない。が、母親としてはそれを認めたくない。それを否定し続けることでしか生きられなくなっている。だからすべてを否定的にとり、疑心暗鬼に駆られるのだ。
初老の夫の息抜きは、男声合唱の集まりに出て歌うこと。
疑心暗鬼の芽生えはいたるところにある。枝払いされないまま、木は陽光を浴びて立っている。近づいてみると、葉がすっかり虫食い状態である。
そのショットと入れ代わるように、男声合唱のハミングの場面に移る。虫食いの葉は、蝕まれた心と重なり、合唱の声と合わさって、疑心暗鬼をもたげさせる。
そのショットと入れ代わるように、男声合唱のハミングの場面に移る。虫食いの葉は、蝕まれた心と重なり、合唱の声と合わさって、疑心暗鬼をもたげさせる。
最終シーン。修羅場が終わり、テラスハウスは静まり返っている。
樹を伐り倒された家では、ひとり残された妻が2階の窓辺に立って外を眺めている。疑心暗鬼とそそのかしによって次男と夫まで失ってしまった。初老の女の険しい表情は、まだ復讐に向かう先を探しているかに見える。
その眼下の庭先に動くものがある。飼い猫が帰宅したのだ。女が陰湿な復讐に出るもととなった奴だ。姿が見えなくなり、てっきり隣人に殺されたものと思い込んでいたのに。それがまるまる太った姿で悠然と歩いてもどってくる。
樹を伐り倒された家では、ひとり残された妻が2階の窓辺に立って外を眺めている。疑心暗鬼とそそのかしによって次男と夫まで失ってしまった。初老の女の険しい表情は、まだ復讐に向かう先を探しているかに見える。
その眼下の庭先に動くものがある。飼い猫が帰宅したのだ。女が陰湿な復讐に出るもととなった奴だ。姿が見えなくなり、てっきり隣人に殺されたものと思い込んでいたのに。それがまるまる太った姿で悠然と歩いてもどってくる。
ここにいたって、女は特上の復讐に見舞われるのである。
アイスランド流ブラックユーモアが遺憾なく発揮されている。こんなふうに恐怖と滑稽を背中合わせにしてみせられるのは高等芸だろう。
映画の分類としてはサスペンス・コメディ。
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