隣家の住人から枝払いするよう言われた木は、日差しをふんだんに受けていながら、葉はすっかり虫に食われている。あのとき枝を剪定しておれば、ここまでにはならなかったろうに。
枝払いを拒んだ側は、じわじわ心を蝕まれ、疑心暗鬼を芽生えさせていく。男声合唱の仲間と声を合わせている最中も、初老の夫は気もそぞろで、何か思いついたような表情を見せる。
虫食いの葉叢と、疑念が湧く表情のショットが、交互に重ねられる。こういうメタファーが映画の質を語るのだ。
大辞林によれば「蝕む・虫喰む」という言葉は
①虫が食って物を損なう。
②(虫が食うように)悪弊や病気が少しずつ体や心をおかす。
とある。
①虫が食って物を損なう。
②(虫が食うように)悪弊や病気が少しずつ体や心をおかす。
とある。
心を蝕まれた状態を、虫やネズミに食われてズタズタにされた姿にたとえるのは、いろんな言語であるようだ。あるいは、金属が錆にやられた状態になぞらえられることもある。だれしも納得がいく感覚だ。
前回、古代アイスランド・サガについて書いたが、そういう長編物のサガには、本筋ではない枝葉の話がまざっていることがある。これは短い伝承譚を集めて縒り合わせることから生じる。おもしろい話はなかなか捨てられないのだ。今日のように編集者がついていれば、ばっさり切り捨てられることになるのだが。
映画の中ではそういったサイドストーリーが、まるで昔の長編サガで残された枝葉の部分のように大事にされている。
観客は、初老の夫婦の次男のしょうもない行状を延々と見せられるのだ。
観客は、初老の夫婦の次男のしょうもない行状を延々と見せられるのだ。
妻に家から締め出されて居場所を失くし、幼いひとり娘を保育園から連れ出したため犯罪者扱いされ、昔の女友達に助けを求めても説教されるだけ。結局、彼は両親の家にころがりこむことになる。
次男が自分の家族のもとでやらかした愚かな行為は、映画そのものの流れからすると、本筋からそれた余計な部分かもしれない。
だが、両親の家にたどり着いて、次男はようやく自分の居場所と役割を得る。夜のあいだに隣人が木を切り倒すかもしれないので、庭に張ったテントの中で見張るのである。
だが、両親の家にたどり着いて、次男はようやく自分の居場所と役割を得る。夜のあいだに隣人が木を切り倒すかもしれないので、庭に張ったテントの中で見張るのである。
果たしてその夜、隣の夫がチェーンソーで問題の木を切り始める。テントの中で眠りこけていた次男は、倒れてきた幹に直撃されて死ぬ。
この映画の本来の流れ--木に端を発する隣人同士の争い--で重要な役割を果たすため、次男の存在は大きく描かれる必要があった。たとえ、本人の姿がどんなにけち臭く見えようと。
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