2016年5月27日金曜日

聴覚から目覚める

動物は聴覚から目覚めていく。
幼くして拾われた「いたちのイタロ」は、まだ目が開かないうちから音に敏感に反応した。人が不用意に出す音、たとえば台所の金物の音に、おびえたように身をすくめた。


生長期のイタロには、わたしの声が母親の導きのような役割をになったと思う。

「イタロ、イタロ」と呼んでやると、短い脚で跳ねてきた。だが、その目は、こちらに向けられてはいても、見ているというには何かが欠けていた。瞳孔のない黒いつぶらな目がそう思わせるだけではない。


犬や猫を相手にしていると、彼らの目にしっかり捉えられていることを実感できる。でも、イタロはこちらに目を向けてはいても、対象のことをわかって見ているふうではなかった。いわゆる視力が低くて、対象に焦点を合わせられない可能性もあるが、それだけではなさそうだ。むしろ、視力と関係なく、別の認識のしかたをしているように思えた。


目の前の人間が、イタロの大雑把なカテゴリーのなかで信頼できる生き物に分類されて、当座の「世界」の一部をなしていただけのことかもしれない。

ずんずん成長していくにつれ、「この世界は何かちがう、自分の世界に出て行くのだ、ここから出せ、すぐに出せ」と要求をつのらせ、それが頂点に達すると、こちらに噛みついてきた。逃げ去る脚に飛びかかった。そのようにイタロはいたちの獰猛ぶりを遺憾なく発揮した。
(人間も生長期、同じような欲求に突き動かされることがある。そういう若い人間は獰猛に映るものだ)。


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動物において(人間も)聴覚が視角より先に目覚めるということで、つい自分の来し方をかえりみてしまう。美術と音楽のどちらが好みか、と問われれば、わたしは躊躇なく音楽を選んできた。物心つくころからずっと、視角よりもはるかに聴覚に支配されてきた。
音楽に偏愛があるからといって、それでもって自分を表現するだけの才能は残念ながらなかった。でも、聴いたものは脳の奥にとどまってくれて、何かのおりにその断片がよみがえることがあると、雲間から陽光が漏れ出るような恩寵をおぼえる。

このひと月はしあわせにも音楽に満たされることになった。
序幕は恒例の「熱狂の日」音楽祭。連休のまっただなか、東京国際フォーラムを中心に、丸の内一帯の建物の内外は、名手たちの演奏で盛り上がる。基本的にフランスを中心にしたヨーロッパのクラシック音楽が、毎年異なったテーマのもとに集まってくる。
フランス人の世界観まるだしの企画ではあるが、肝心なのは、いい演奏を浴びることができるというところにある。前もってコンサート・ホールでの公演の切符を手に入れて、構えて聴くのもいい。でも、あちこちに設けられた無料のステージで繰り広げられる演奏が、何の構えのない心に浸透してくる。そういうなか、自分の聴いてきた音楽のフレーズが自然とよみがえってくる。そこには言葉は介在しない。ひたすら、音のかたまりが記憶からこぼれでてくるのだ。

その後も心に染みる演奏をいろいろと聴くことになった。音楽のおかげで言葉が塞き止められてしまったと言えようか。今月、当ブログが留守同然だったのはそんなわけだ(ただの言い訳だろう)。


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