2016年5月31日火曜日

ガムラン音楽あれこれ


この日曜日の夕方、散歩がてら近所の神社に行ってみると、境内でガムラン音楽グループが仕上げの練習に励んでいた。音楽のリズムに合わせて踊り手たちが、独特に曲げた手の舞いと足運びとを繰り返している。これは地元の〈深川バロン倶楽部〉の面々で、毎年夏、神社の例大祭でバリ島の芸能「バロン・ダンス」を奉納上演することになっているのだ。



こんな夕方の時間、バリ島ウブドの村は午睡からさ
めて、市場が活気づき、煮炊きの煙が、形容しがたいスパイス香と渾然一体となって漂ってくる。バリ島の夕餉どきの匂いは、わたしの幼い時分の記憶を呼び醒ましてくれた。
今、この神社の境内ではそういう空気は望めない。でも、神々の島の音楽は、日本の自然をそっくりくるみこみ、自然体で響きわたる。

この時間、神社にやってくるのは近所の人たちだけだ。べつだん足を止めるでもなく通りすぎていく。こうして地べたにすわって、異国の深い響きとこまかいリズムで空気を波立たせている一団は、夏が近いことを知らせてくれる風物となって、境内の空気に溶け込んでいるのだろう。夕方、雀や椋鳥が気に入りの樹に群がって、ひとしきりさえずり騒ぎたてるようなものか。

地元の人たちには何よりもまず神輿の渡御がある。祭りのあいだ、この神社をよりどころとする50基もの神輿が、あたり一帯からここへ集まってきて、霊力をいただいてから、それぞれの地区へ戻っていく。その騒ぎっぷりといったら尋常ではない。

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初めてバリ島に行ったのは1989年のこと。ヨーロッパとの往復でシンガポール航空を利用したのを機に、前々から行ってみたかったバリ島へ、経由地シンガポールから足をのばしてみたのだ。そして多くの異邦人がそうであるように、この島のすべての虜になった。
その10年前から、「観光化で以前の魅力を失ったバリ島」の話を聞かされていたのだが、どうしてどうして、音楽をともなう芸能はふだんの生活のなかに生きているし、家の内外、田んぼの回りには、洗練された飾り物がさりげなく置かれている。「こういう場所でずっと暮らしたい」と思わせるだけの魅力を発していた。これはあくまでウブド村とその周辺のことだ。





翌年から夫を誘って何度もこの地を訪れることになった。すでに世界のいろんな民俗音楽を体験してきたということもあり、ガムランを始めとする音楽芸能にひたるだけでも、バリ島を訪れる価値があった。
ごく普通の人たちが日常生活のなかで楽器を弾いて楽しむ姿はちょっとした驚きだった。
この写真は夕刻、店主が手すさびに、近所の子連れのお父さんといっしょに竹製ガムランを叩いているところ。

 


その場に居合わせて音を聴かないかぎり、驚きはつたわらないが、2メートルくらい離れて、それぞれ少し異なる単純なフレーズを打ち鳴らす二人の中間、頭上あたりで、別のメロディが、やわらかなオルガンの音色にも似た響きを立ち昇らせているのだ。これは倍音のなせるわざだ。天上的といっていい。

こんな素朴な竹琴でも玄妙な倍音が生じるくらいだから、〈ジェゴグ〉と呼ばれる、巨大竹ガムランの合奏から発する倍音ときたら、まるで天空でパイプオルガンが深い音色を鳴り響かせているとしか思えない。しかもそのメロディは、だれかが奏でているものではない。

モンゴルの「ホーミー」と呼ばれる歌唱法では、ひとりでこういう倍音を出すことができる。
わたしも猫に向かってなら「ホーミー」を歌って聞かせられる。(実感からすると、「歌う」というより「うなる」ものであるが)。

---このページの写真は © イタロ-- 


ポリフォニー音楽

ヨーロッパ中世ルネサンス時代のポリフォニー音楽は、わたしにとって数少ない音楽実践の場を提供してくれた。
1970年代の終わり、ひょんなことから中世ルネサンス音楽の演奏グループに加わって、リコーダーを吹いていたことがあるのだ。
メンバーのなかに、当時すでにプロの道を進み始めていたギター、リュート奏者がいて、フランドルやフランスの作曲家のなかから、弾きやすい世俗曲(つまり宗教性のないもの)を選んで、楽譜も用意してくれていた。この若いギタリストの後の手堅い仕事ぶりを見るにつけ、よくまああんな素人の集まりに耐えてくれたものだと思う。
初心者でもとっつきやすいスザート(Tylman Susato)などの曲のおかげで、わたしはパートを合わせて弾く楽しさにはまった。
ギヨーム・ド・マショーの晦渋な曲にまで挑戦したとは、今となっては信じられないくらいだが、それがわたしの「ポリフォニー音楽」体験の原型を形作ることになった。個々のパートは比較的単純なメロディでありながら、たがいに支え合うようにできていない複数のパートを重ねることで、音楽全体に異化作用を生じさせる--というふうに説明するとわかってもらえるだろうか。
こころよさをめざしていると思えないそういう音楽は不思議にあとをひく。

唐突な話だが、昔テレビでたまたま目にした『安来節』がそんな風だった。三味線、笛、太鼓が二組で別々の節をやっていると見せて、それらが節目節目でぴたりと合わさり、唄い手はさらに別の節でもって囃子を乗りこなしているのだ。今、ネットを探しても、そういう演奏を見つけることができないのは残念だ。

最近では、アニメ映画『かぐや姫の物語』の最後、〈天人の音楽(久石譲作曲)〉に、中世ポリフォニーの異化効果を感じた。これについては、映画全体の基調からあまりに離れた、唐突で異色の音楽が異化作用をもたらしたということもあるだろう。映画のサウンド・トラックをこの場で引用する手だてがないので、不満ながら代わりの音源を。

演奏グループでは、声楽曲も試みることになり、各自、NHKラジオ・テレビのフランス語講座に挑戦した。
ユングの心理学にも熱中していたこの時期、わたしは東京にいて別世界にあった。


2016年5月30日月曜日

こんな音楽を聴いてきた

前回は音楽の話をしながら、固有名詞ひとつ出さないままだった。カタカナであれ、漢字であれ、固有名詞で埋まった文章は情報をつたえるためなら許せるが、文章として読むのはつらい。せっかくネットを使っているのだから、YouTubeなどの音源を引用すれば、下手な文章より音をじかにつたえられるのではないか。
このところ耳に快く聴いてきた演奏会の一部を紹介すると--

アンサンブル・ジャック・モデルヌ (声楽アンサンブル)
『ルネサンスの自然~ロワール川のほとりで』
16世紀フランドルとフランスの作曲家、オケゲム、ジャヌカン、セルトン、ムートンなどのミサ曲とシャンソンのなかから、特に自然をめぐる題材のものが取りあげられ、声のポリフォニーによって展開される。複数の異なるメロディーが異なるリズムでもって絡まり合い、アラベスク模様を織りなしていく。

パオロ・アンジェリ
サルデーニャ島出身のギタリスト、シンガーソングライター。バリトン・ギターにチェロの機能を持たせた自作のエレキ楽器でオリジナル曲を演奏。ちょっと見にはアクロバット芸人だ。弦が縦向きについているのは当然ながら、そこに横向きに、さらに中空にまで、素材の異なる弦が張り渡され、いろんな音を出すべく工夫の産物の小道具を付け加え、両手両足と弓を駆使して、ギター・チェロの怪物を弾きこなす。マグレブと南欧の入りまじった濃厚な地中海音楽。アンジェリ本人は、機嫌のいい子供のように快活そのもので、あの怪物楽器をさらに進化させていきそうで心配になる。

ジャンニ・イオリオ(バンドネオン)とパスクァーレ・スタファノ(ピアノ)のデュオ
Concerto Nocturno
イタリア人のバンドネオンの名手とジャズ・ピアニストの組み合わせ。刀剣の名人ふたりの立ち回りを見ているような、緊張感あふれる舞台となった。アストル・ピアソラを始めとするアルゼンチン・タンゴを聴いていると、夜の空間にきらめく閃光が躍り出るさまが見えてくる。張りつめた音を鋭く刺していくバンドネオンの奏法がそう思わせるのか。その緊張を弛めるようにピアノの流麗な即興が差しはさまれるのが快い。



中央区交響楽団 第22回定期演奏会
サンサーンス『アルジェリア組曲』 エドワード・エルガー『チェロ協奏曲 ホ短調』 伊福部昭『シンフォニア・タプカーラ』
メンバーの参加費で成り立っている楽団のようだが、選曲からしてじつに野心的。
ソリスト、辻本玲氏の「エルガーのチェロ協奏曲」には完全に圧倒された。濃密にうねる音色がホールいっぱいに満ちわたるかのようだった。YouTubeで聴けるピエール・フルニエの演奏が、あの場の印象を多少なりとも再現してくれているように思う。

2016年5月27日金曜日

聴覚から目覚める

動物は聴覚から目覚めていく。
幼くして拾われた「いたちのイタロ」は、まだ目が開かないうちから音に敏感に反応した。人が不用意に出す音、たとえば台所の金物の音に、おびえたように身をすくめた。


生長期のイタロには、わたしの声が母親の導きのような役割をになったと思う。

「イタロ、イタロ」と呼んでやると、短い脚で跳ねてきた。だが、その目は、こちらに向けられてはいても、見ているというには何かが欠けていた。瞳孔のない黒いつぶらな目がそう思わせるだけではない。


犬や猫を相手にしていると、彼らの目にしっかり捉えられていることを実感できる。でも、イタロはこちらに目を向けてはいても、対象のことをわかって見ているふうではなかった。いわゆる視力が低くて、対象に焦点を合わせられない可能性もあるが、それだけではなさそうだ。むしろ、視力と関係なく、別の認識のしかたをしているように思えた。


目の前の人間が、イタロの大雑把なカテゴリーのなかで信頼できる生き物に分類されて、当座の「世界」の一部をなしていただけのことかもしれない。

ずんずん成長していくにつれ、「この世界は何かちがう、自分の世界に出て行くのだ、ここから出せ、すぐに出せ」と要求をつのらせ、それが頂点に達すると、こちらに噛みついてきた。逃げ去る脚に飛びかかった。そのようにイタロはいたちの獰猛ぶりを遺憾なく発揮した。
(人間も生長期、同じような欲求に突き動かされることがある。そういう若い人間は獰猛に映るものだ)。


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動物において(人間も)聴覚が視角より先に目覚めるということで、つい自分の来し方をかえりみてしまう。美術と音楽のどちらが好みか、と問われれば、わたしは躊躇なく音楽を選んできた。物心つくころからずっと、視角よりもはるかに聴覚に支配されてきた。
音楽に偏愛があるからといって、それでもって自分を表現するだけの才能は残念ながらなかった。でも、聴いたものは脳の奥にとどまってくれて、何かのおりにその断片がよみがえることがあると、雲間から陽光が漏れ出るような恩寵をおぼえる。

このひと月はしあわせにも音楽に満たされることになった。
序幕は恒例の「熱狂の日」音楽祭。連休のまっただなか、東京国際フォーラムを中心に、丸の内一帯の建物の内外は、名手たちの演奏で盛り上がる。基本的にフランスを中心にしたヨーロッパのクラシック音楽が、毎年異なったテーマのもとに集まってくる。
フランス人の世界観まるだしの企画ではあるが、肝心なのは、いい演奏を浴びることができるというところにある。前もってコンサート・ホールでの公演の切符を手に入れて、構えて聴くのもいい。でも、あちこちに設けられた無料のステージで繰り広げられる演奏が、何の構えのない心に浸透してくる。そういうなか、自分の聴いてきた音楽のフレーズが自然とよみがえってくる。そこには言葉は介在しない。ひたすら、音のかたまりが記憶からこぼれでてくるのだ。

その後も心に染みる演奏をいろいろと聴くことになった。音楽のおかげで言葉が塞き止められてしまったと言えようか。今月、当ブログが留守同然だったのはそんなわけだ(ただの言い訳だろう)。


2016年5月11日水曜日

琥珀の力

先月のうちに区切りをつけておきたかった話題。長々と休んでいるあいだに水気が失せ、鮮度も落ちたが、「琥珀の力」というタイトルでしめくくりたい。もちろん『ジュラシック・パーク』やオカルト系の話ではない。

アイスランド語で「電気」のこと  rafmagn raf 琥珀、magn 力)という。
新しく造られた語だ。格変化が厳格なため、アイスランド語は、ほかのゲルマン語系言語のように気軽にラテン語、その他の言語に由来する外来語を取り入れるわけにいかない。新しい文物には、既成の語を組み合わせた語を新たに造ってやらねばならない。この「ラヴマグン(琥珀力)=電気」はギリシャ語の原義をふまえた造語なのだ。

カタカナ外来語があふれているとはいえ、日本語は漢語で外来のものや概念を簡明に表す新語が考案されてきた。「電気」などなかなかの出来で、今もって「エレキ」系の外来語に取ってかわる気配はない。「人工衛星」もうまい造語だ。アイスランド語の gervitungl (人工+月)よりうまく考えられている。

それはそうと、なぜ電気が「琥珀力」なのか? 琥珀の何が電気なのか?
琥珀をこすると静電気を帯びる。この性質については古くから知られていて、ギリシャ語の琥珀 ηλεκτρον elektronでもって電気をあらわす語が作られたというわけだ。

ところで、このエレクトロンという語自体、「太陽の石」という意味を持つそうだ。
なぜ琥珀が「太陽の石」か、ということになると、古代の民間説話と神話が一定の説明をしてくれている。
ギリシャ神話をひもとくなら、有名なファエトンの物語のなかで「太陽の石」の由来が語られる。太陽神ヘリオスの息子ファエトンは、父の所有する太陽の二輪車に乗りたくてたまらない。ようやく願いがかなって車を走らせてみると、操縦が未熟なせいで太陽の軌道をはずれてしまい、大地が焼け焦げるにいたって、ついには父の手で二輪車から撃ち落とされて死ぬ。(まるで当今のガキが親の車で暴走し、激突死するようなものだな)。
ファエトンの姉妹たちは彼の死を嘆き悲しみ、泣きに泣くうちにポプラの木に変身し、なおも涙は樹脂となって流れた。その樹脂が陽ざしを浴びて乾き、川底に沈んで琥珀になったという。


この話がローマ時代の詩人オヴィディウスの手にかかると、細部が肉づけされ、ちょっとした読み物となる。彼の著『変身物語(メタモルポーセス』の巻2で、太陽の二輪車に乗りたがったパエトンの話が語られる。その描写のドラマチックなこと、さながらスペクタクル映画『パエトンと黄金の二輪車』のシナリオといっていい。

アイスランド語の「琥珀力=電気」については、思ったとおり、1行で終わってしまう話題だったが、琥珀について探索していくと、知らなかった話がつぎつぎと数珠つなぎになって出てきて、収拾がつかなくなるほどだ。
琥珀そのものが、ギリシャ、ローマの時代から人々の想像力をかきたててきただけでなく、財としての力もじゅうぶん発揮した。「琥珀力」を言うなら、こっちの話題のほうにふさわしいかもしれない。

古代ローマで琥珀は「北の黄金」と呼ばれて珍重され、バルト海からローマへ運んでくる「琥珀の道」までできていた。13世紀になって今のポーランド北部に入植してきたドイツ騎士団が、琥珀の捕獲権を一手に握ることになり、それが彼らに富をもたらした。というのも、当時ヨーロッパでは「琥珀のロザリオ」が霊験あらたかだとして熱狂的に求められ、価値が高まったからだ。

キアラン・カーソンというアイルランドの作家に『琥珀捕り』という作品がある。(Fishingfor Amber by Ciaran Carson, 1999 / 栩木伸明訳・東京創元社・2004 )。さながら海荒れのあとの浜辺に打ち上げられた物を拾い上げ、そこからとりとめなく話を紡いでいくような味わいの語り物だ。かんじんの琥珀はあまり出てこない。とはいえ、ドイツ騎士団の琥珀の捕獲権とロザリオについては、ポーランド人水夫の口を借りてしっかり語っている。カトリックの国アイルランドに、琥珀のロザリオの古い伝承が残っていても不思議ではない。

今回参考にさせてもらったのは、武田充司氏の「リトアニア史余談」。日本の原子力研究の草分けの方のようだ。「電気系」という同窓会同期の人たちで作っているブログのなかで遭遇することになった。これも何かの奇縁かもしれない。
氏による琥珀の解説を引用しておくと――

琥珀の学名はサクシナイト(succinite)であるが、現存しない松の一種“amberrich pine”と俗称される学名“pius succinifera”という木の樹液が固まって化石となったものだ。新生代第三期の始新世(Eocene5300万年前~3400万年前)の末期に、この樹木が現在のバルト海地域を覆っていた。その後、氷河期がおとずれ、最後の氷河期が終ると北欧を覆っていた厚い氷の層が融け、この地域は広大な海となった。しかし、厚い氷の重みから解放された大地は徐々に隆起し、現在のような湖の多い低地と浅いバルト海が形成された。琥珀は密度が1.051.10と軽いので生成された場所に長く留まることなく、川の流れや洪水で低地へ押し流されてゆく。そして、バルト海という盆地に流れ込んだのが「バルト海の琥珀」である。嵐のあとは、海岸付近の浅い海底に埋もれていた琥珀が強い波の作用で海岸の砂浜に打ち上げられる。