2019年5月25日土曜日

奇妙な噂話(承前)


承前。

「心底」驚かされた。その衝撃的な知らせは、文字どおり心の底まで降りて離れようとしなかった。北欧館の方角につい目がいってしまうのも仕方ないことだった。
その日はわたしも自室の窓辺に立って、目の前の建物を眺めやった。だが、そこには別の思いもあった。もしかすると、昨日のあの空の、あの雲のせいではなかろうか?

じつは前日の午後遅く、わたしはやはりそのように窓辺に立ち尽くし、空一面を厚く覆う灰色雲の不思議な模様に見とれていたのだ。今となっては具体的に思い描くことはできないが、空全体が無数の小さな渦巻き模様で覆われているイメージとして記憶している。墨流しのマーブル模様を思わせる灰色の濃淡の陰影が、重圧感をともなって迫ってくる。不気味であり、まがまがしくもある。そんな形状の雲を見たのは初めてで、その後も出会ったことはない。

(その模様はゴッホの絵にたとえていいかもしれない。風景画の空や畑が渦巻きのタッチで塗り重ねられているところなど。あるいは、「渦巻く青い背景の中の」という説明書きのついた晩年の自画像の背景)。




そうやってわたしは自分なりのストーリーを作ろうとしていた。昨日、フィンランド人館長はあの不気味な雲に魅入られ、ついに意を決した、ということだってありえる。だが、どんな心の闇を抱えて?

 
なぜ?何があったのだ?

当人の謎の部分が、ぽっかり空いた空間として残っているからには、それを埋めるものが必要とされたのだろう。事件からしばらくたって、その真空の空間に奇妙な噂話が流れ込むことになった。それは出どころ不明の流言のたぐいではあった。だが、何とか謎を解き明かしたいという願望が形をとると、それが無責任な噂だとわかっていても、一抹の真実がまじっているように思われた。

噂によると、前の年の復活祭時期に行方不明になった学生が、最近、北欧館の地下で死体で見つかったという。しかも、あのフィンランド人館長がかかわっているというのだ。


--酔っぱらった学生は、タクシーで寮の玄関前まで送り届けてもらったあと、表扉に通じる段を上がらないで、北欧館の方へ歩いていった。そして、真ん中の道路を横切っていたところへ車がやってきてはねられてしまった。
運転していたのはフィンランド人館長で、倒れている男を車の後部に押し込んで、北欧館のプライベート・スペースに帰り着いた。学生は死んでいた。
北欧館の地下は未完成の躯体のまま、人の出入りもないので、館長はその一画に死体を隠した。(このあたりの描写には大型冷蔵庫などが出てくるが、つじつま合わせに見える枝葉の部分は省略するとして)。翌年になって、ついに心の秘密に耐えきれず、晴れた春の日、あのようなやり方で自分に決着をつけた。--

そんな都市伝説じみた噂話も、時とともに消えていくものだ。しかし、わたしはそれをリアルなものとしてまざまざと感じるという体験をすることになった。

デンマーク語科の授業は続いていて、年度末の試験も近かった。その頃、北欧館に新しいLL教室ができた。デンマーク語科でも音声の授業をそこでやる機会があり、わたしは北欧館に出向いた。教室は地下にあるという。そもそも地下部分に足を踏み入れるのは初めてだった。
階段を降りるとそこは白一色の空間だった。地下設備の工事が始まったばかりのようで、床も壁も天井も、躯体のコンクリートに白塗装がなされていた。天井の白い蛍光灯が空間を均一に照らしている。真っ白な中に立っているだけで感覚がおかしくなりそうだった。ともかく、LL教室を捜し当てなくては。
壁をよく見ると鍵穴が見分けられ、そこがドアであることはわかった。だが、ドアノブも、そのほかの何もついていない。白一色のなかで、壁の鍵穴だけが、こちらを見つめるように並んでいる。ぞっとした。噂に聞いた話を思い出さずにはいられなかった。封印された扉の向こうにまで意識が向かってしまい、足がすくんだ。
やっとのことで、壁からひとつ把手が突き出ているのを見つけて、救いの手のようにそこにすがりついた。ドアを開けると、中は明るく、木張りのすっきりした内装の、真新しいブースの並ぶ教室が迎えてくれた。

(一応これで4回続けた記事は終わりとする)。

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