承前。
話を1973年の初めに戻すと、その頃から荒れ模様の天気が続き、暴風が原因の停電に何度も見舞われた。停電するほどの事態は初めての体験だった。
わたしは最終試験と論文の準備に追われる身であり、机に向かう時間を減らすわけにいかない。まだ夜は長い。そこでクリスマス季のために買ってあった蝋燭をありったけ机の上に置き並べ、停電の夜はゆらめく灯火のもとで資料に向かった。目に良かろうはずがない。真性の近視になったのは、そのとき目を酷使したせいだ。
まさに非常事態だった。噴火の状況が刻々報じられている。アイスランド本土の南に位置するヴェストマン諸島の、よりによって漁業の中心地である島ヘイマエイで、地表の割れ目から溶岩が噴出しているのだった。
(後日談になるが、島民の大半がただちに島から脱出したあと、残った男たちは、大切な漁港へ向かってくる溶岩の流れをくい止めるべく、消防ポンプを動員して、海水を汲み上げて溶岩に浴びせ続け、最終的に港を守り抜いた)。
前回の記事に書いたとおり、〈新寮〉で隣室の医学生が死んでいるのが見つかったのはこの厳冬期のことだ。
結果的にわたしは部屋を替えてもらい、窓の正面に見える北欧館と、その向こうに広がる景観のおかげで、不安な気分は吹きはらわれた。試験勉強や論文書きにもいい環境となるはずだった。
結果的にわたしは部屋を替えてもらい、窓の正面に見える北欧館と、その向こうに広がる景観のおかげで、不安な気分は吹きはらわれた。試験勉強や論文書きにもいい環境となるはずだった。
そのあと目の前の北欧館で事が起き、さらにその件をめぐって奇妙な噂がじわじわと広まるにいたって、このモダン建築は、当時の記憶を刻みつける土台となった。つまり北欧館とその地下空間の印象を下地にして、その上にもろもろの出来事が塗り重ねられたと言っていい。当時のことは、そういう絵柄となってわたしの記憶にとどまっている。
アイスランドの気まぐれな気候は季節外れの好天をももたらす。
3月になってのこと、春の陽光にめぐまれた朝、わたしは大学の教室で〈アイスランド民俗学〉の講義が始まるのを待っていた。
この科目は必修ではなかったが、担当講師のアルッニ・ビョッソン Árni Björnsson 氏の人となりに惹かれて受講していたのだ。
彼はとても熱い人だった。ダーウィンをしのぐほど額が突出したいかつい風貌といい、全身を震わせて訥々と語るさまといい、未だ文字が使われていなかった古代からワープしてきた人物のようで、いつも見とれてしまった。
この科目は必修ではなかったが、担当講師のアルッニ・ビョッソン Árni Björnsson 氏の人となりに惹かれて受講していたのだ。
彼はとても熱い人だった。ダーウィンをしのぐほど額が突出したいかつい風貌といい、全身を震わせて訥々と語るさまといい、未だ文字が使われていなかった古代からワープしてきた人物のようで、いつも見とれてしまった。
その朝、氏は遅れて教室に入ってくるなり、額を片手で包み込み、「ああ、ああ」とため息をつくばかりだった。そうやって心の動揺を体で表現してから、ようやく言葉を継いだ。
「あの人が、フィンランド人の館長が、さっき亡くなったのだ、北欧館の自宅で。ああ、ああ、自分の胸に包丁を突きたてて--こうやって何度も何度も。ああ、なんてことだ」
学生のひとり、デンマーク人女性が、その場に必要な言葉で応えた。
「わかるわ、わかる、アルッニ、たいへんなことがあったのだから、今日はもう授業なんかなしにして。早くお家にもどって」
教授と学生のあいだであろうと、敬語や尊称など存在しないのがアイスランド流だ。そもそも姓というものがないからには、名前で呼ぶしかないのだが、その名前にしても、単純形の愛称がごく普通に使われる。教師を愛称で呼ぶなんて、さすがにわたしにはできなかった。
ともかく、アイスランド人と結婚していたそのデンマーク人学生は、その場を上手にやりすごさせたわけだ。
フィンランド人館長の凄惨な自殺の話はあっというまに知れ渡った。
アイスランドのような狭い同族社会では、殺人、自殺、事故死などの個人的事件はメディアで報道されない。日を置いて、新聞に追悼の辞が載るくらいなものだ。報道されなくても、噂というメディアによって、驚くほど短時間に、だれもかれもがその件を詳しく知っている。報じる手間をかける必要さえない。嘘や誇張のないリアリスティックな情報をだれもが共有しているのだから。
館長の死は、2、3日後の新聞一面中央の追悼文によって公的に知らされた。
〈新寮〉では、北欧館に面するラウンジに学生たちが集まって、外を眺めながら、いつ果てるとも知れない長談義にふけっていた。
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