承前。
「そういう絵柄として見たいがゆえに、そう見え、そうとしか考えられず、そのように理解する」と前回書いた。
過去の記憶のひとこまがそう書かせたのかもしれない。自分の意識の底に沈んでいた過去の出来事が、このような言葉を繰り出してきたのかもしれない。
何であれ、何らかの連想でつながることは可能で、連想の釣り針に引っかかる獲物が深海の珍しい魚であろうと、正体不明の生き物であろうと、つながるところから意味が生じるのだから。
まずはアイルランドでの出来事。
1990年代、夫のたっての希望で、西部クレア州の町エニスEnnisで開催された伝承音楽のセミナーに二人そろって参加したことがある。ここではその詳細にまでは立ち入らない。ともかく、レンタカーを借りていっしょにアイルランドをめぐるのは2度目のことだった。
エニスの町に入ってまもなく通りがかったB&Bが悪くなさそうだったので、部屋を見せてもらうことにした。あとで思えば、まずセミナーの本部を訪れて、宿を紹介してもらうのが順当だったろう。でも、イギリス、アイルランドでは、B&Bに関するかぎり、たまたま出くわす宿でじゅうぶん気持ちよく過ごすことができる。(現在ではずいぶん事情が変わってしまったろう)。
その家の女主人(あるいは主婦)はわずかにとまどいの表情を見せたが、わたしたちを招き入れ、部屋を見せてくれた。こちらもそのあいだに自分たちのことを説明した。東京からやってきて、町の教育施設で開催される音楽セミナーに参加することになっているのだと。
案内された部屋は少し狭いことを別にすれば、不満に思う理由もなかったので、とりあえずそこに2泊することに決めた。
あとで気がついたのだが、部屋にはひとつ妙な点があった。--これがこのエピソードの肝であるが--窓の横手の片隅に洗面台が設置されていて、その下のスペースに、色付けされた聖母マリアの像がすっぽり収まる形で立っていたのだ。
夫が言った。
「やっぱりこの国の信仰心のほどがわかるね。こんなところに表れているんだ」
「んーー(ソレッテ変ダ)」。わたしは同調できなかった。何だかおかしいと思いはしたものの、反論は思いつけなかった。
どれくらい後になってからのことだったか。セミナーが終わり、宿も引き払って、別の場所に移動していたのは確かだ。ほどよく晴れた空模様(よくreasonableと形容される)のもとで突然、啓示のように、わたしの頭に答が降りてきた。
「わかった、あの洗面台の下のマリア像のこと。--泊まり客の行動を監視させているのよ。夜、部屋の外のトイレに行くのが面倒くさいものだから、洗面台でやらかすなんてこともありうるね。それを防ぐためにマリア様に見張ってもらっているというわけ」
まさにどんぴしゃり。これ以外の正解はない。
つい最近、『ベロニカとの記憶』というイギリス映画を観たさい、ある滑稽な場面で上記のエピソードを思い出すことになった。
映画の原作はジュリアン・バーンズの『終わりの感覚』。わたしの好みの作家であり、語りたいことは多々あるが、いずれそのうちに。
以下は映画に依拠して書いている。
以下は映画に依拠して書いている。
物語は、今や老境にある主人公トニーのもとに、思いがけない内容の手紙が届くところから始まる。そこで一気に自分の過去へと引きもどされると、記憶をたどり、反芻していく。
大学時代の恋人ベロニカのこと、高校時代からの親友で、若くして自殺したエイドリアンのこと。
過去の苦い体験については、きっぱり片をつけておいたはずだのに、今頃になって自分に揺さぶりをかけ、存在の根幹を揺るがそうとしている・・・。
そういう展開のなか、二十歳そこそこのトニーがベロニカの実家に招かれて滞在するシーンがある。
それはロンドン郊外のちょっとした邸宅で、いささか風変わりな家族は、ベロニカのフィアンセ候補に対し、小手調べのように、遠慮のないふるまいで応じる。
父親にいたっては、今夜泊まる部屋に案内しながら、片隅の洗面台を指して言うのだ。
それはロンドン郊外のちょっとした邸宅で、いささか風変わりな家族は、ベロニカのフィアンセ候補に対し、小手調べのように、遠慮のないふるまいで応じる。
父親にいたっては、今夜泊まる部屋に案内しながら、片隅の洗面台を指して言うのだ。
「夜はそこに小便していいぞ」