2017年1月19日木曜日

ふたりのベンテ

初めて出会った人物が自分と同じ名前だったとしたら、人はどう反応するだろう?まずは縁を感じて親しみをおぼえるのか、それとも、別人格の自分を発見したかのように当惑をおぼえるのか。

またもや話題は、ヘレ・ヘレの『犬に堕ちても』にもどる。
この小説で主人公の「わたし」の名前は不明のままだ。みずから名乗ることもない。まるで自分の過去とともに、名前までも置き去りにしてきたみたいに。といって、ことさら隠そうとしているわけではない。名前もそこへやってきた事情も、べつだん問われることがなかっただけだ。
それにしても、名前がないと何かと不便だ。
知らない土地に降り立った「わたし」は、誘われるまま、地元のカップル、プッテとジョンの家に置いてもらう。翌朝、犬の世話をしに出かける二人に同行して、帰り道、同じ集落の老女エリュの家にいっしょに立ち寄る。そこでなぜかプッテが先手を打って、新入りの「わたし」を「ベンテ」という名前で紹介するのだ。まるでゲームで意想外の手に出たみたいで、ジョンも怪訝な顔をする。
ともかく、「わたし」は以後、「ベンテ」という仮の名前で呼ばれることになる。

小さな共同体のなかではあるが、新しい名前で認知してもらってリセットされた、というところだろう。それまで「わたし」は、作家として、ひとりの女として、自縄自縛におちいるなかで、書くことはおろか、動くのもままならなくなっていた。それが「ベンテ」としての役割を引き受けるうちに、体力のいる仕事まで何とかやってのけるようになる。
思いもよらないことに、このさびれた集落で、ベンテはなくてはならない存在となっていた。--もう引き上げ時だ。判断力を取り戻しつつあった「わたし」の念頭に、そこを去るという選択肢がちらつくようになった。

そんなときのことだった。仮名のベンテが、その名の由来するところのベンテ本人に出くわすのは。自分を失っていたところに、別の自分を見いだしたというべきか。
それは思いもよらない人物像だった。本物のベンテはプッテの友達で、離れた町の落ち目のスーパーでレジ係をしている。

ふたりのベンテはどこまでも対照的である。同じ名前で呼ばれているものの、似たところは何ひとつなさそうだ。
仮名のベンテ(「わたし」)は込み入った心の持ち主で、何にしても陰影を見る。本物のベンテは単純で通俗的。何にしても平板な絵にして見る。
それぞれをSofisticated Bente(Sベンテ)Vulgar Bente(Vベンテ)として対比させるなら

Sベンテ- Vベンテ
42 20
体型を保っている 超肥満体
語れないまま語っていく ためらいなく物語ることができる
何ひとつ断定できない 何でもやすやすと断定できる

というふうに、ふたりのベンテはまるきり互いの反転画だ。
Sベンテからすると、自分の戯画をVベンテに見たというところだろう。だが、本物であるVベンテはうらやましいくらい屈託のない心の持ち主だ。Vベンテを通せば、咀嚼、消化吸収のプロセスなしに、見聞きしたものがそれらしい絵に仕上がって出てくる。自分でいろんなストーリーを盛ることになろうと、それらしいストーリーができてくれればいい。ストーリーがつながらなければ、場面転換でしのぐまでだ。

そうやってVベンテは滔々と語るのだった。Sベンテが今いる共同体の人間模様を、ひと目でわかる図柄にして。それはまちがいなく悲惨なファミリー・ストーリー、別名ゴシップというものだった。

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