本ブログの話題を、ヘレ・ヘレの小説『犬に堕ちても』から、マイケル・ブース『限りなく完璧に近い人々』に横すべりさせておきながら、デンマークの「腐ったバナナ」のことを言い忘れていた。ブース氏も自著のなかで取りあげている。
den rådne banan
この図で見るように、デンマークの西端から南端にかけて、三日月形になぞった周縁部は「腐ったバナナ」と呼ばれる。国の繁栄から取り残され、ただ朽ちていくように見える地域。
『犬に堕ちても』の舞台はまさにそういう場所だ。〈訳者あとがき〉に書いたくだりを引用しておくと--
デンマークは小国ながら農業大国の座はゆるぎないまま、近年はバイオテクノロジー、情報通信、エネルギーの分野で進展著しい。北ドイツから伸びるユラン半島のほかは多数の島という地理的不利も、二十世紀末、二つの大きな海峡の架橋で解消し、今では主要都市を経由してスウェーデンまで陸路で結ばれて、新たな経済圏が生まれつつある。また、充実した社会福祉で知られ、日本では世界一幸福な国という修辞をつけて語られたりする。
一方、首都コペンハーゲンから半島部の第二の都市オーフスにかけての中央部に人口が集中し、繁栄を見せてはいても、そこからはずれた地域は日陰の役割を引き受けざるをえない。そういう周縁部分を半円のバナナ形に見立てて、「腐ったバナナ」と呼ぶこともある。産業が衰退し、職もなく、若い人が都市部へ出てしまった一帯では、共同体を維持できない「限界集落」が打ち捨てられた光景をさらしている。
この小説が現在のデンマークを舞台にしながら、幸せな国のイメージを拒んでいるのは、「もうひとつのデンマーク」が背景にあるからだ。そういう現実のことなら、作者ヘレ・ヘレは生まれ育った土地でいやというほど知っている。
--引用終わり。
この小説で作者は、幸福の国デンマークの日のあたらない部分を描き出そうとしているのでは断じてない。でも、リアルな描写は、そこがかなり見捨てられた土地であることを教えてくれる。
唯一の公共交通のバスは1日1本だけ。水道、電気、電話といったライフラインはそろっている。だが、街道沿いの家々は、半農半漁の暮らしのおもかげを残しながら、無住の姿をさらしている。
主人公の「わたし」は、地元の若いカップルの家に置いてもらって、何かと不便な生活を、ひとつひとつ味わうように体験する。
たとえば薪ストーブ。ブリケットという、木材チップを圧縮加工した薪を使う。デンマークで普及しつつある「地域暖房」の恩恵にあずかれない土地で、冬の暖房が電気式だと高くつく。嵐のため停電することもあるので、薪ストーブが正解だ。
停電の夜はろうそくをともし、即興の影絵芝居を演じ、薪ストーブの上で「りんご焼き」をこしらえる。(これは、粉を溶いて〈たこ焼き器〉で焼いたまんまるのホットケーキと思えばいい。作り方の動画)。近所の独り暮らしの老女から、電気ストーブが切れて凍えていると連絡があると、カップルは老女を自宅に連れてくる。
というふうに、あれこれ心なごむものがそろうと、そこはいつのまにか、デンマーク的感性が好ましいとする hyggelig な空間になっている。
大半の住民が出ていったその集落で、主人公のまわりの人たちはどうやって生計を立てているのか?
わざわざ書かれてはいないが、若い人たちは自動車事故の後遺症をかかえ、公的援助を受けていると察せられる。そのほか、個人的に斡旋してもらう半端な仕事もある。老女は当然、年金暮らしだろう。
登場人物の何人かは、国や自治体の教育支援制度を利用したことがある。
主人公の「わたし」にしても、首尾よく書きあげられたら、国の出版助成金を申請するのかもしれない。
前回書いたブース氏の言葉をもう一度引くと
「専門家によれば、幸福の鍵の一つは、人生を主体的に生きられるかどうかにあるそうだ。自分の運命を自分で決められる贅沢、自己実現を達成するという贅沢が、できるかどうかだ」。
なるほど。
平等に教育が受けられ、困難にさいしてはいろんな支援制度を利用できるこの国では、「腐ったバナナ」と呼ばれる地でも幸福の鍵を見いだすことができるのだ。断言するつもりはないが。
それはそうと、この小説はデンマークの社会問題を扱った作品ではありませんので。くれぐれもお間違えなく。
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