2019年2月28日木曜日

奇想のぞわぞわ感



雨の上野公園。こんな氷雨の日は外出をやめたいところだが、今回は特別の催しがあり、逃すわけにいかない。東京文化会館小ホールで室内楽の演奏を聴く機会にめぐまれたのだ。

それは ARTmeetsMUSIC という企画のもと、美術と音楽を時代でつなげようという試みである。
ちょうど今、東京都美術館で〈奇想の系譜~江戸絵画のミラクルワールド〉という絵画展が開かれているのに合わせて、東京都交響楽団のトップメンバーがこの企画にふさわしい曲を選んでくれていた。
ひとつはハイドンの弦楽四重奏曲62番《皇帝》、もうひとつは、先のカルテット・メンバーにピアニストの小川典子が加わって、シューマンのピアノ五重奏曲 Op.44

日本の江戸時代に当たる年代に活躍した作曲家のなかから、古典派とロマン派の二人を取り上げて、それらの対照ぶりがわかる曲が選ばれている。先行・支配する音楽と、それに対抗してみせる音楽。形式のうちにあって安心感をおぼえる音楽と、何が起こるか予測のつかない奇想の音楽。

シューマンのピアノ五重奏曲は、まさしく心の深い部分をざわつかせる曲だ。「なぜ、そんな」と言いたくなる展開。いったい何があったのか、何があったにせよ、そうなるしかない、歩みを続けるかぎり、とでもいうように。若い心が逸るあまり、ここから飛び出していく衝動に駆られるように。そうやって5つの楽器が絡み合い、たたみかけていく。逸る心が性急に追い求めていく。
聴き手からすれば、ざわざわ、ぞわぞわする感覚が自分の内部でかきたてられ、立ち昇っていくのを押しとどめようがなかった。 


演奏会が終わると、上野公園の別の一角にある東京都美術館へ向かった。そこでは〈奇想の系譜~江戸絵画のミラクルワールド〉が待っている。
岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳、白隠慧鶴、鈴木其一が一堂に会するという豊穣ぶりに、広い会場空間は、絵画から漏れだすざわめきに満たされているかのようだ。さきほどのシューマンの音楽によってかきたてられたざわざわ、ぞわぞわする感覚がそう思わせるのか。

わたしはこれらの絵師たちの作品に、絵そのものを見たのか、それとも音楽を聴いたのか、はっきり言うことができない。


人の心のふとした隙間から立ち昇ってくる「ぞわぞわ感」は、思いがけない時に出現するらしい。

2019年2月14日木曜日

エリック・ワイナー


エリック・ワイナーという書き手がいる。ジャーナリストとしての豊富な取材経験にウィットとひらめきを交え、持ち前の饒舌でもって巧みに語っていく。そんなところに読者を引き込む魅力が隠されているようだ。

著書として『世界しあわせ紀行』と『世界天才紀行』の2冊が日本ではよく知られている。どちらも関根光宏訳で早川書房から出ている(それぞれ2012年、2016年)。
著者紹介によれば「アメリカのジャーナリスト。『ニューヨーク・タイムズ』の記者を経て、NPR(全米公共ラジオ)の特派員としてニューデリー、エルサレム、東京などに暮らし、30カ国以上で取材した経験を持つ」ということである。


わたしはワイナーの『世界しあわせ紀行』を読んで、著者のひらめきに感じるものがあり、それを今後小出しに話題にしていきたいと思っている。
それはあくまでも著者の語り(あるいは頭の柔軟性)に誘発されてのもので、昨今の「幸福論」などとつながろうはずがない。
このところの「幸福談義」は、衣食足った世界に浮上する一過性の流行病のように感じられる。今、思いついて「幸福ぶらさがり症候群」と名付けてみた。幸福について論じる自分は意識が高い、正しい側にいる、と思ってもらえるから論じるまでである。

以前、当ブログの記事にした『限りなく完璧に近い人々~なぜ北欧の暮らしは世界一幸せなのか?』KADOKAWA 2016)は、著者マイケル・ブースがやはり豊富な経験と巧みな語りの持ち主であり、ワイナーとは別の味わいが楽しめる(何しろフードジャーナリストなのだ)。

経験豊富で世界を見てきたジャーナリストなら、数多くのエスニック・ジョークを持ち合わせているだろう。エリック・ワイナーは『世界しあわせ紀行』の最終章で自国アメリカについて語るなかでこんな小話を引っ張ってくる。

 ある人にとっての楽園は、別の人にとっては地獄にもなりうるし、そのまた逆もありうる。数世紀前、布教のためにグリーンランドにはじめて上陸したヨーロッパの宣教師は、いわゆる飴と鞭の方法を採用し、異教徒である現地の人々に対して次のように説いた。天国に行きたければ改宗しなさい。さもないと永遠に地獄をさまようことになる。
「地獄とはどんなところですか?」と、好奇心旺盛なグリーンランドの人々が口ぐちに尋ねた。
「とても暑い場所です」と宣教師が答える。「しかも、四六時中その暑さにさらされます」
 するとグリーンランドの人々は、凍てつく北極のツンドラを見回してこう言った。「ありがたい。では私たちは地獄を選ぶことにします」
エリック・ワイナー『世界しあわせ紀行』p.417・関根光宏訳)

ワイナーのこのエスニック・ジョークをわたしは軽く読みとばすことができなかった。
先月、グリーンランドを舞台にした絵本『雪の子アプツィアック』のことを取り上げたばかりである。グリーンランドの土地を糧にして生きる男が、最後にエスキモーの天国に到達し、生前なれ親しんできた人々や動物たちに囲まれて、しあわせに暮らしている場面で物語は終わるのだ。

半世紀前、ポール-エミール・ヴィクトールがこの絵本を作った当時、きっとあのエスニック・ジョークが紋切型のように語られていたろう。作者はそれを追放したかったのだろう。たとえ「キリスト教の押しつけ」になろうとも。



2019年2月7日木曜日

ねじるんです

「手綱こんにゃく」という名前まであるそうだ。要するに「ねじりこんにゃく」のことで、煮しめ料理に使うさい、こんにゃくをひとひねりして変身させたものである。それがおせち料理の世界では雅びな一品に格上げされ、結んだ手綱にちなむ名前で呼ばれているらしい。

このあいだ読んだ阿川佐和子のエッセーでは、その形態について、こんにゃくの心理の機微にまで立ち入って語られている。
「長方形に切ったこんにゃくの中心に包丁を入れて切れ目をつける。その切れ目にこんにゃくの片方の端をくぐらせると、あらまあ不思議。手綱こんにゃくの出現である。まるで手品のようだった。くるりと裏返ったこんにゃくが、左右にねじりを入れたかたちでしゃきっと落ち着く。まるでそのかたちがこんにゃくにとってこよなく心地よいとばかりの落ち着きようである。もとの長方形に戻ろうという気配はなく、まな板の上で堂々と仰向け(どちらが表かわからないけれど)になっている。」(新潮社フォーサイト、やっぱり残るは食欲(16)より)


これを読んで、食材にひと手間加えて変身させるという技が親しく思われ、さらに
別の食べ物のことへと連想が向かった。
アイスランドの「ねじりドーナツ」である。わたしはある環境と状況のもと、食材をねじるという技を教わったのだ。

アイスランドで留学生活を送るようになって最初の冬、わたしは短期休暇を郊外の老人施設に住み込んで働かせてもらった。レイキャヴィクから内陸に入ったクヴェラゲルジ Hveragerðiという、地熱を最大限に利用するため計画的に作られた町だ。老人施設もそのひとつで、1970年代初めとしては理想的な形態で運営されていた。


そこでは、体が動く老人たちは、分譲住宅街のように散らばる一戸建ての家に数人ずつ分かれて暮らし、3度の食事と居住者同士の交流には中央棟があり、日中の多くをそこで過ごすようになっていた。
大型の中央棟は医療施設も兼ねていて、介護が必要な人たちが入院生活をしている。
メインホールにはオルガンが備えられ、日曜日にはそこでミサがおこなわれた。

わたしは戸建てのひとつ、空き部屋のある家に住まわせてもらって、早朝から中央棟に働きに出かけた。
その家にひとり居住していた女性は、こぎれいなたたずまいもあって、老人には見えなかった。だが、彼女は重い鬱を抱えていた。日中はきちんとした身なりでいたものの、体を起こしているのも耐えられないというように、いつでもソファに横たわってまどろんでいた。
わたしはアイスランド語の練習を必要としていたので、彼女を相手に、少ない語彙を動員して話題を振ってはみたものの、まれに応えてくれても話は続かず、じきあきらめざるをえなかった。

ともあれ、わたしの職場の中央棟は、いろんな人たちが働く活気あふれる場所だった。なかでも重要な食事部門は、リネイという有能な女性の指揮・統率のもとにあって仕事が割り振られ、わたしが置かれた立場は、さしずめ台所部隊の一兵卒というところだった。

そこでわたしはいろんな半端仕事を命じられたものだ。
食堂の椅子の脚の下部分を拭いて汚れを落とすように。丸茹でしたじゃがいも(アイスランドの土壌で育成できる数少ない野菜のひとつで、とても小さい)は、熱いうちに皮をはがすこと(熱くて握れないようだったら、一瞬だけ水に浸していい)。

居住者たちは日に3度、中央棟の明るい大食堂にやってきて、置き並べられた4人用テーブルについて食事をする。
朝食はビュフェ・スタイルで簡単にすませる。ただ、パンについては、ライ麦パンなり白パンなり平焼きパンなり、好みのものが選べるよう、種類別に大皿に並べておかねばならない。
薄切りライ麦パンにバターを塗っておく仕事を仰せつかったとき、わたしはふだんするように、ごく薄く伸ばし広げた。するとリネイは「だめだめ」と言って、どうすべきか手本を見せてくれた。巨大なバターの塊から、厚さ5ミリはありそうな片に切り取って、薄いパンの上に塗る--というより、乗せるのだ。
バターを「塗る」と、「乗せる」とのあいだには越えがたい溝があると思い知った。

椅子の脚拭きから、熱々じゃがいものピーリングへ、さらに大皿の盛りつけへと、わたしは昇進していき、ついにアイスランド料理界の一端にまでたどりついた。それがねじりドーナツ、クレイヌル (kleinur単数形は kleina) である。


まず、しっかり練ったドゥを麺棒で延ばし広げるところから始め、それを5センチほどの幅に長く切っておく。つぎにその帯筋に対して斜めに切れ目をいれていく。すると、そこは菱形模様で埋めつくされている。ここが肝心な部分だ。正方形でも長方形でもない菱形。トランプのダイヤ形。

端に半端な切れが残るが、そんなものはあとでまとめて片づければいい。

つぎに菱形たちのそれぞれをちょっと変身させておく。

縦長の中央に切り込みを入れて穴を作り、細い端をつまんで裏から穴をくぐらせて引っくり返す。さっきまで平たく伸びていたドゥ に華やぎがほの見える。

お菓子作りの世界では初歩レベルの手仕事だろう。

この作業を延々やり終えたら、たっぷりの油で揚げる。茶色に色づくまで。ねじってある部分はよく膨らんで、盛り上がっているところなど、どことなく肉感的と言えなくもない。

パンケーキと並んでアイスランドの誇る国民的菓子クレイナ(クレイヌル)のレシピは、ざっとこんなところである。バターやクリームや揚げ油のことをはしょって説明するならば。

「クレイナ」という名前の由来はささやかなものだ。直接には、その菓子のデンマークでの名称「 klejna クライナ」から来ており、「クライナ」からして、ドイツ語の kleine 、「小さな」という形容詞でしかない。


小さいといえば、この揚げ菓子はそのとおりだ。

ところで、アイスランド語でクレイナ、クレイヌルと音にしてみると、いかにも「ねじるんです」と言っているように思えないか?