どうやらポリティカリー・コレクト(公正に)という態度にはずれるので、というのが理由だろう、デンマークで半世紀前に訳本として出た『雪の子アプツィアック』というフランスの絵本は、図書館の書庫にしまわれ、見えなくなっている。
過去にグリーンランドを植民地化したデンマークは、いやおうなしに、「エスキモー」たちとどう折り合っていくか、という問題にずっとさらされているのだ。
この絵本は、狩猟生活がおこなわれていた昔のグリーンランドを見せてくれている。厳しい土地で生まれ育った男の子が、その地を糧にして生き、命を終えるまでが、単純ながらじつに情感あふれる物語として描かれている。子供に不向きであろうはずがない。
原作者はフランス人の民族学者、ポール-エミール・ヴィクトール。初版は1948年。フラマリオン社の〈ペール・カストール〉シリーズの中で揺るぎない人気を保ち続け、今なお版を重ねている。幸いフランスでは、何ともやりきれないグリーンランド人の姿を見かけないですむのだし。
この絵本のことを思い出したのも、今の時期、北方の極寒の地で人々が寒さを楽しむニュース映像が流れてくるからだ。それとともに、この絵本の存在を教えてくれたデンマーク人のこともなつかしく思い出された。
1980年、コペンハーゲンで過ごしていたわたしは、パッケージツアーで恒例となっている出発直前の大幅値引きを利用してロンドンに出かけた。当時イギリスで暮らしていた友人を訪ねるつもりでもあった。
ツアー客たちのあいだで毛色が異なる者同士として、わたしはそのデンマーク人、クルトと知り合い、コペンハーゲンにもどってからも交流を続けた。
クルトはいわば歴史の生き証人だった。チェコスロバキアでユダヤ人家系に生まれて、家族姓はPicz...というチェコ風だ。そこがナチス侵攻によってドイツに併合されると、まだ幼いクルトは家族とともにデンマークに逃れてきた。そこもナチス・ドイツに占領されるのは時間の問題だった。
デンマークのどこでどのように匿われてこの時期を生き延びたのかについて、わたしはクルトから聞かされることはなかった。少なくとも、中欧よりも、オランダよりも、デンマークという国はユダヤ人に好意的だったのは事実だ。
ともかくクルトはデンマーク国籍を取得し、長じて新聞社でレイアウトの仕事に就いた。デンマーク女性と結婚し、女の子が生まれた。アンネ・フランクを思わせる黒髪のユダヤ美人に育った娘は、親族もいるイスラエルに移り住んでいるとのことだった。
クルトは自分の関心事を、知り合った外国人のわたしにつたえたくてたまらないようだった。そのひとつがグリーンランドである。
彼はまさに「グリーンランドおたく」だった。
わたしを国立博物館のグリーンランド展示に誘い、『雪の子アプツィアック』のデンマーク語版を渡して、「これをぜひ日本で翻訳出版するといい」と言った。
「でも、わたしのフランス語ときたら、ほんの初歩レベルですよ」
「なあに、デンマーク語ができるんだから大丈夫」
この絵本にクルトはひとかたならぬ愛着を感じていることがうかがわれた。
彼がグリーンランドに熱中するわけは何となく想像できた。今いる国で疎外感をおぼえるのだ。
デンマーク本土で見かけるグリーンランド人は、完全な酩酊状態でなければ、どことなくうつむき加減である。グリーンランドにとどまっていれば、もっと幸せでいられるだろうに。でも、そこには暮らしていく手だてが少なすぎる。昔の狩猟生活にはもう戻れない。
「雪の子アプツィアック」の躍動感あふれる一生は、グリーンランドで「エスキモー」らしい生きかたができた当時の「楽園」の姿といっていい。だが、そんなものはゴーギャンのタヒチ島と同じく、描く者の思い入れがこめられた絵空事でしかない。
異国にあれば、むきだしの皮膚がヒリつくような思いをすることもある。
一度、わたしはコペンハーゲン郊外の町にあるクルトの戸建て住宅に招かれて、日本料理らしきものを披露することになった。何のことはない、すき焼き風の牛肉葱焼きに、焼き飯を添えたものがメインである。
彼は近所の行きつけの肉屋にわたしを連れていき、店の親父に「牛をできるだけ薄く切ってくれ。日本ではそうするんだ」と注文した。
そこで肉屋の親父が無言で注文に応じたことに、わたしはあとあとまで引っ掛かりをおぼえた。そんなときデンマーク人なら、何かしら思いつく言葉や態度で応じるはずだのに。
その年のうちに帰国したわたしのもとに、クルトからグリーンランド情報が何度か届いた。だが、わたしはいっとき異邦の暮らしをしてはみても、帰国すれば自分の国にいる身だ。そこでは、むきだしの皮膚がヒリつくような場面にさらされることはない。クルトの熱意に十分応えられないまま、文通はとだえた。
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