2016年12月30日金曜日

書くこと、読むこと~作家という存在

ヘレ・ヘレの『犬に堕ちても』についてもう少し語ってみたい。

この小説のために自分でキャッチコピーを考案してみたことがある。
「デンマーク、デンマーク」だとか
「ミニマルなデンマーク、日々のおかしみ」など。
これじゃ読者として想定している女性たちに届きそうにない

幕開けは絶妙だ。
泣くのにちょうどいい場所を探している」
しかも、冬の荒れ模様の海辺。夕暮れが迫っている。どんなドラマが始まるかと期待させる。この書き出しが最高のキャッチコピーではないか。

バスを乗り継いで、この地に降り立った42歳の「わたし」は、親切な地元住民の家に置いてもらうことになる。知らない土地で出会った人たちは、「わたし」の事情を詮索することもなく受け入れてくれた。すぐ先に見える無人島で暮らしたい、という突拍子もない話にまで本気で乗ってくれる。
とはいっても、現実には、まわりの人たちのこまごました暮らしにつきあって、おしゃべり好きの老女の相手をし、犬の世話に出向き、といった用をこなすのに忙しく、自身の悩みや気まぐれはあとまわしになる。
そんな日々のちょっとした隙に「わたし」の過去がすっと入りこんで、素性がしだいに明かされていく。

じつは彼女は作家なのだが、長らく鬱状態にあって書けないでいる。
パートナーとの関係も、そのほかの人間関係も、自分でぶちこわしにしたせいで、社会的立場を失くしてしまった。--デンマーク語の言い方をもってすれば「犬に成り下がった」。そんな自分と向き合わざるをえないところまできている。
 それでも、ことさらに意味を問うまでもなく続いていくのが日常だ。犬に堕ちても、毎日何かしらあって、日常と茶飯は続くよ、どこまでも。そこはかとないおかしみさえ醸しだされる

主人公が作家として読者に向ける視線はなかなかに辛辣だ。
世の中には「読書会」というものがある。読者の側が張り切って自分の思うところを開陳するいい機会だ。
読書会を主宰する、まちがいなく真摯な読者である女性の場合、自分の感興に溺れて、作家のパロディを演じてしまう。
読書会のメンバーは、教養ありげに見えるから参加しているだけで、そういう人たちは有名人が大好きで、ゴシップに目がない。まっさきにオカルト話に飛びつく。
そういう現実に主人公はいちいち当惑する。

ヘレ・ヘレは説明的な叙述を排して、状況に語らせる。単純かつスリリングなストーリーを追い求める読者にとって、この小説はきっとわかりづらいだろう。
その妙味は語りにある。一人称の語りはデンマークの細部に満ちている。
過疎の集落にとどまっている人たちの暮らしぶりがこまごま語られ、緊張感に欠ける会話が繰り広げられる。
そういうゆるい環境にあれば、気持ちの「凝り」もほぐれるのだろう、語り手は置き去りにしてきた過去をひとつひとつ開いていく。

ヘレ・ヘレは紙芝居を見せるつもりはない。ストーリー丸わかりの通俗小説を提供しているわけではない。だが、少なくとも、言葉によって描かれることのない大きな物語はある。それは語り手本人にしてみれば悲劇というしかない。だが、それを悲劇めかして語るならば、自分でも「嘘ばっかり」と言うしかない代物になりはてるだろう。

ヘレ・ヘレは読者にサービスするつもりはない。「消費者にやさしい製品」とは真反対の「読者にやさしくない小説」。これを『犬に堕ちても』のキャッチコピーにしていいくらいだ。




2016年12月28日水曜日

待たれるゴドーはデンマークで

「書割かきわりのような」という形容がかならず思い浮かぶ。暮れ方、空に残る青みが、日の没した地平の朱とせめぎ合い、つかのま色彩のページェントが繰り広げられるとき。そこに金星が張りついていれば、わざとらしさの仕上げとして、これ以上望むものはないくらい。晴天の宵のちょっとした見ものだ。冬の東京では珍しくない。
書割の夕空がいわば「イデア」として、現実の夕空を先取りしてしまうとはおかしな話だ。自分ではわかっているが、それはまちがいなくサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』の舞台背景からきている。この芝居をダブリンの〈アベイ・シアター〉で見たときの衝撃とともに、舞台上の書割の夕空が自分のうちに刻み込まれてしまったらしい。1976年のこと。

『ゴドーを待ちながら』という劇には、劇的(ドラマチック)といえるものがいっさいない。登場人物や台詞、道具立ても、限りなく切り詰められ、何かの原型になるまで削ぎ落とされている。道端の一本の木の前に風来坊の男が二人、ゴドーを待ちながら、所在なさげにすわりこんでいる。退屈まぎれにたわいない言葉をかわすばかり。
出来事といえば、奴隷とその主人が闖入して雑音を入れたり、幕間の区切りをつけるように使いの少年が現われて、「ミスタ・ゴドーは今は来られないが、そのうち来る」というメッセージを告げる。ただそれだけ。何事も起こらない。待っている男たちもゴドーがだれか知らない。

何かの原型として考えると、そこから始まるものがありそうだ。だれにでもありそう。どこにでもありそう。



このブログの初回の記事にもどっていく。そこでわたしは作品を翻訳する過程で、意外な事実を発見したり、奇想にいざなわれたりする、と表明している。これは自分としてはちょっとした目くらましのつもりだった。インタビュアーの凡庸な質問に対して、期待される答えを裏切ってみせるため。
だが、実際のところ、翻訳中の〈思いつきメモ〉は、断片のままたまっている。その一部は「訳者あとがき」に生かしてきた。だが、大半は「箪笥のこやし」として、さいわいかさばるものではないので、パソコンのしかるべき場所に寝かせてある。

そう、わたしはデンマーク小説『犬に堕ちても』を訳す過程で思いついたことを開陳するつもりで、ここまで延々と書いてきたのだ。手持ちの「奇想」のひとつをここで明かすと、作者ヘレ・ヘレはベケットの『ゴドーを待ちながら』の影響のもとでこの小説を創りあげた、というものだ。(ヘレ・ヘレ氏とはメールでやりとりしてきたが、わたしはまっとうな翻訳者の態度を保つことにつとめ、自分の奇想を話題にしたりはしません)。

『ゴドーを待ちながら』の原題は En attendant Godot / Waiting for Godot 。最初フランス語で書いたあと、ベケットはその英語バージョンを完成させた。 
フランス語なればこそ Godot は「ゴドー」と読まれ、当然、英語版でも「ゴドー」という読み方は引き継がれている。作品自体、有名になって、「ゴドーとは何者か」ということが論じられるなかで、Godot のなかに God を見いだしたり、綴りを逆にした to dog のなかに「犬」を見いだしてみたりと、評論家に議論の種を提供してきた。

ところで、デンマーク語からすると Godot はどう感じられるのか?
Godot を逆さに綴った to dog 。デンマーク語で to(ト)は数字の2。英語の助詞 to(トゥ)は、デンマーク語では同じニュアンスの助詞 til (ティ)が対応する。英語とデンマーク語の両方をこきまぜ、たゆたわせていくうちに、to dog が「to hunde 2匹の犬」になったり、「til hunde 犬のほうへ」になったりしながら、 gå i hundene にたどりつく。「犬に成り下がる」、つまり「零落する」という意味で普通に使われる言い回しだ。これが小説の題名として Ned til hundene (Down to the Dogs) に落ち着いたものと推測される。

「泣くのにちょうどいい場所を探している。そんな場所はなかなか見つかるものではない。何時間もバスを乗り継いで、こうして海辺でぐらつくベンチにすわることになった」。
そうやって主人公の「わたし」は登場する。冬のデンマーク、荒れ模様の夕方、うらぶれた風景のなかに降り立って、ひとりじっと待っている光景は、まるで『ゴドー』の冒頭場面のパロディだ。が、それから先となると、何も起こらない『ゴドー』とは対照的に、この小説は日常の出来事で埋めつくされている。主人公の「わたし」だって、ありていに言えば、抱えている重荷に負け、「人生詰んでしまった」という思いから家出してきた事情が少しずつ明らかにされていく。
だが、自分ではあずかり知らないことだったが、降り立った土地で「わたし」は待たれていたのだ。友達として、話し相手として、伴侶として。はからずも2頭の猟犬の世話係まで引き受けさせられる。

住民が出ていった寂しい集落に踏みとどまる人たちは、それぞれの心が思い描く「ゴドー」を待っていた。