2019年4月24日水曜日

1972年の復活祭の頃


復活祭に関連してあの話を書いておかなくては・・・と思いつつ、時宜を逃すこと2度、3度。今年はどうやら自分の内的気運が高まったようだ。

今年421日の復活祭は、スリランカの自爆テロに血塗られることになった。その数日前、パリのノートルダム大聖堂の尖塔が焼け落ちるという象徴的な災厄が起きたばかりだ。
それでなくても今年のイースターホリデーの時期は、交通事故のニュースが続いたのが印象に残った。--マデイラ島で観光バスが制御不能になって崖から転落、乗っていたドイツ人観光客が大勢亡くなった。日本では、高齢者の運転する車が暴走し、あるいは停車中のバスが急発進して死者を出すという事故が続いて起き、さまざまな議論を呼び起こした。

これら一連の事件、事故に何らかの因果関係を見いだそうというつもりはない。
わたしにとっては、復活祭の時期に印象に残る出来事が立て続けに起きるだけで十分だった、昔のあの記憶を鮮明によみがえらせるには。

1972
年の復活祭は42日だった。当時わたしはアイスランド政府の奨学金を受ける身として学生寮に暮らしていた。大学本棟の両脇に建つ新旧2棟の学生寮のうちの「新寮」のほう。窓の外は、真正面に見えるモダン建築の〈北欧館〉のほかには、何もない野っ原が広がるばかり。そのずっと先にある小さな国内線空港も丸々見えた。


             Norræna húsið (Nordic House 北欧館)フィンランドの建築家アルヴァ・アールトの設計。〈新寮〉の窓からこんな風に見えていた。 

復活祭をはさんだ休暇が始まった頃、同じ「新寮」に住まう男子学生の行方がわからなくなった。最後に彼の姿を見たのはタクシー運転手だった。深夜、寮の玄関前まで送り届けたのだ。かなりの酩酊状態だったという。そのあと学生は部屋に戻ることはなかった。

きっと目の前の野っ原に迷いこんでそのまま行き倒れたのだ。真っ先にそういう判断が下されるのが、いかにもアイスランドらしい。
そこで、広い荒野を横一列に並んだ捜索隊の一行が、櫛で梳くように進んでいく探索がなされた。復活祭当日のことだ。

その朝、大学ホールでおこなわれるバッハの『マタイ受難曲』の実演に参加するため、スウェーデン人の友人アンナと連れ立って出かけるとき、小雨の中、荒野の捜索が始まったところだった。

 『マタイ受難曲』は、イエス・キリストが自らの死を予感する場面から始まって、ついに十字架にかけられて亡くなり、そのあとよみがえるまでを、聖書にもとづいて克明にたどっていく、いうなれば音楽劇だ。
演奏者と合唱団のみならず、聴衆も参加する形式になっていて、ホールに入場するさい、コラール合唱の歌詞が皆に手渡されていた。演奏の途中、指揮者の合図で聴衆が立ち上がり、さきほど歌われたなじみ深い旋律のコラールを復唱するのだ。
唱和する声の厚みは広い会場を突き抜けて、天空に達するかに思われた。

23時間の演奏が終わり、わたしたちが歩いて学生寮に帰り着く頃には、捜索の隊列が荒野のずっと先まで進んでいるのが見えた。

行方不明の男子学生は結局、見つからなかった。きっと何かの出来心から、近くの海岸まで歩いていき、そのまま海に入ってしまったのだ、ということにされた。

アイスランドでは、メディアというものがなくても、何かあると皆、その事件について知っている。しかも驚くほど早いうえに、内容的にほとんど違いがない。まるでその場で見聞きしてきたかのように、だれもがその事件の詳細を語れるほどである。
あの学生がいわば「復活祭時期に行方不明になった学生の話(サガ)」として語られてきたかのように、だれもがその顛末を知っていた。

だが、その「サガ」が末尾で、「かの男は何らかの出来心から、近くの海岸へ足を向け、そのまま入水し終えた」といった文句でしめくくられたとしても、この人物は別の噂(サガ)のなかで取り上げられることになる。

あの未解決事件から1年近くたった頃、奇妙な噂話サガ)がささやかれるようになった。

(このあと3回に分けて続ける)。


0 件のコメント:

コメントを投稿