2016年7月8日金曜日

黄毛のアン(2/3)

回想をたどるうちに、ふと思うことがあった。寄宿先のあの家にテレビはあったろうか。ダイニング・キッチンとリビングは自由に使っていたのに、そこでテレビを観たおぼえはない、テレビはなかったのだ。ホストファミリーは最良の環境を用意してくれていた。若い人に長く感じられる夜の時間は外で過ごすべし。この季節は日も長い。

ハイデルベルクの生活にも慣れたころ、アンの親友クレアがアイルランドからやってきた。ゴールウェイ大学のクラス仲間だそうだ。その苗字も黒髪も、アイルランドの見本にしたいくらいの女性で、年齢はずっと上のようだ。町で事務の仕事についていて、世馴れているぶん包容力が感じられ、アンが何かと頼りにしているのもうなずけた。

写真の右と左が黄毛のアンと黒髪のクレア。中央はドイツ語クラスで知り合ったアイスランド人ヘルギ(仮名。どうしてもこの美少年の名前を思い出せない)。ドイツの音楽専門学校のピアノ科に入学することになっていて、ドイツ語を勉強しなくてはならないのだ。レイキャヴィークに近い小さい町の出身で、ハイデルベルクでは修道院に滞在していた。
三人の女子といっしょに市内を散策してからビヤホールに行くのはどう?とヘルギを誘ったのだ。ホストファミリーの家にはアプライト・ピアノがあった。何か弾いて聞かせてくれない?と頼むと、彼は大げさに「ば~~ん、ば~ぱ、ば~ん、ば~ぱ」と鍵盤を叩いて、ショパンの『葬送行進曲』を弾いてみせた。
「町で葬式があると、いつもこれを弾かされるんだ」

ビヤホールでヘルギはアイスランド人の作法をしっかり見せてくれた。それはアルコール摂取行動といっていい。
今では昔語りになってしまったが、長らくアイスランドでは酒類については厳格な法律がさだめられていて、どんな酒も国営販売所でしか買えなかった。処方箋薬局のように殺風景な販売所では、カウンターの向こうに怖い顔のオバサンがいて、そこで身分証明書を提示して、ようやく売ってもらえるのだ。週末をひかえて、「ちょっと政府に行ってくる」というのが、酒飲みの言いぐさだった。
このようにアルコールが規制されていると、酒の飲み方がなげかわしいことになるのも当然だった。よく見られたのが、ウォトカをコーラで割ったものをあおって、いち早く酩酊状態に達するというものだ。

ヘルギは深刻な顔をして大ジョッキの半分をひと息で飲み、いったんテーブルにジョッキを置くと、目を泳がせながら自分の酩酊具合を確かめているふうだった。当時のアイスランドでは、ウォトカやジン、ウィスキーやプランデーといった度数の高い蒸留酒は売っていても、ビールは禁制品だった。
(日本からシシャモを買いつけにやってくる船の乗組員たちは、アイスランドの理不尽な禁ビール事情をよく知っていて、自分たち用のビールを使ってなかなかうまい取り引きをしていた。大樽2個の塩蔵タラコが瓶ビール2ケースと素早く交換される場面をわたしは目撃したことがある。アイスランドでは使い道のないタラコで宝物を手に入れたおっさんはにこにこ顔だった)。

ハイデルベルクでも人気のあるビヤホールの広い内部は、昔の造りのままだったろう、年季の入ったテーブルはどれも大きく、客はカウンターでジョッキのビールをそのつど買ってきて、空いている席に座ることになる。いろんな人と相席になって、「どこから来たの?」という定番の問いかけから、いい会話に発展していくこともあった。
そういう場でアンは、話をかわす若い男たちと住所交換をしておくのが常だった。

クレアの滞在中のことだった。なじみのビヤホールで、わたしたち女三人連れのテーブルに、二人連れの男が席を占めると、自分たちのことを紹介しはじめた。ひとりは眼鏡をかけた中年男、もうひとりは禿げかかってはいるが、まだ若さは残していた。
若いほうが言うには、自分はここの大学の学生、というか万年学生ってとこで、文学、歴史、哲学なんかを渡り歩いてきたんだ。それから、連れの男を指して、この人は今専攻している学科の先生だ、と紹介した。それを受けて眼鏡の男が言う。自分はここの大学で社会学の講師をしているんだが、この男のように、気楽な学生身分がやめられないケースがあってね。
そんなたわいないことを話しているうちに、講師の男が切り出した。
「私はこれから自分の車でスペインにバカンスに出かけるところだ。道中のお供をしてくれる人がいたらいいなと思っているところに、君たちに出くわした。どうだろう、旅をいっしょするのは。ただし、ひとりしか連れてゆけない。行ってみたいと思ったら、遠慮なく手を挙げてくれ」
講師はわたしたち三人の顔を順繰りに見つめたが、その目が最初からアンを選んでいるのは見え見えだった。何ともいけすかないヒヒおやじだこと。心の内でそうつぶやきながらも表情には出さないで、クレアとわたしは即答した。
「残念ながら仕事に戻るので」
「このあと東欧を旅する予定なので」
アンひとりがじらすような内気なしぐさで、その気がないでもないといった反応を見せた。
(次回に続く)

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